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「気象むらの方言」シリーズ記事のまえおき

同じ専門の勉強をした人どうしの話を、その専門の勉強をしたことがない人が聞くと、まったく違った意味にとってしまうことがある。しかし現代には、一般の人の生活の中でも、そしてとくに政策決定の場では、いろいろな専門の知識を使わなければならないことがある。専門の学問体系を勉強する時間がとれず、結論的な短い文章だけを参照することが多くなる。その際に、用語の意味をとりちがえているとたいへんだ。

専門独特の表現のうちには、一般社会に通じる用語で言いかえられるものもある。その場合は、専門家の側で、専門外の人に向けて書くときに表現を気をつけるのがよい。専門家どうしのやりとりでも一般用語にそろえてしまったほうがよいかもしれない。

しかし、説明するためには専門の学問体系を教えなければならないものもある。学びたい人には教えればよいのだが、その時間のない多くの人には、ひとまず、「これは専門用語なので、たとえ形が同じ単語の別の文脈での意味を知っていても類推しないでください」と注意して、その単語の意味が未知のままでもわかる範囲で、論理的構造の側から、文の意味を推測してもらうことになるだろう。

この両極端の中間に、「専門の人たちの用語の習慣を理解してもらえば誤解は避けられるのだが、その説明は、その用語が出てくるたびにできるほど簡単でない」という場合がある。これから数か月にわたって少しずつ書いていきたいのは、そういう事例だ。

わたしは専門として気象学を勉強してきた者であり、また、大学で気象学の授業を担当するので、ここでは、気象にかかわる専門集団の用語を説明していきたい。

表題に使った「気象むら」という表現は、最近よく聞かれる「原子力むら」という表現に触発されている。しかし、ここでわたしは、気象学者・気象技術者という種類の人間の特徴やその集団の特徴を論じたいのではない。専門共同体は言語共同体であるという認識【たとえばThomas Kuhnの晩年の著作「構造以来の道[読書ノート]参照】に基づいて、ある共同体内部の人が言語学者あるいは文化人類学者に自分の言語を説明するような視点から、この専門共同体で話されている言語の特徴を説明したいのだ。気象むらの言語は、広い意味の物理系の自然科学を勉強した人には、だいたいなじみがあるが、たまに謎を含むにちがいない。それは方言の違いに相当すると思う。