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昔、大型計算機センターというものがあった

所属している機関の計算機更新構想の話を聞いて、次のような意見を言いたくなった。「機関共通の計算機の必要性は、計算をする機械としてよりも、職員間でデータを共有する場としてのほうが大きいのではないか。」そのことを文章にしようとしたのだが、頭がそれと関係はあるが焦点がずれたところに向かってしまったので、そちらを先に書き出してみる。データ共有の場についてはいずれ別の記事にしたい,【[2019-06-20補足] [2016-06-29の記事]にした】。

わたしの【2010年当時の】所属機関(のうちの主な所属部門)は、世の中から見ればすさまじい大量の数値計算をする人が集まったところだ。その中では、わたしは小規模な計算しかしない者になってしまった。世の中から見ればよく計算をする人にはちがいないし、同分野の大学教員などと比べれば「人並み」ではないかと思うのだが。

1980年代、大学院生や助手(今の制度ならば助教)だったわたしは、所属していた大学の中でも大量に計算機を使う人だった。アメリカの同業者と比べても、ひとりあたりにすれば多く使っていたにちがいない。(わたしが全地球の1年分の気象データを処理したとき、アメリカでも1年分をとおした結果を示した人は少なかった。) その計算機の使いかたについて他の利用者の相談にのることも多かった(一部は計算機センターのパートタイムの相談員として、一部は同業者の助け合いとして)。

今のわたしに当時のような計算機エキスパートとしての能力・見識を期待されても、もはやわたしは年寄りにすぎませんと言うしかない。時代に取り残されたのだ。さらに言えば、自分の働きを支えてくれた人々や社会的しくみについて(感謝していたつもりではあるが)思いがたりず、その次の世代のしくみを積極的に作る働きをしてこなかったのがいけなかったのだ。

若い人には想像しにくいと思うが、1980年代初めには、「電卓」は普及して手まわし計算機は無用の長物になっていたが、「マイコン」はあったもののそれ自体を趣味とする人の世界であり、科学計算に使える計算機を持てる研究室はわずかしかなかった。数値計算をしたい人は計算機センターに足を運ぶか電話回線で呼び出して使うしかなかった。個々の大学で持てる計算機の能力も限られていたので、全国7つの大学に「大型計算機センター」というものが設置されて、大学教員やその承認を得た大学院生ならば、どの大学に属していても、また専門が何であっても、利用することができた。ただし、所属大学の公費から使用料を払う必要があった。計算機センターの基本的人件費や設備費は直接国の予算でまかなわれており、使用料は電気代や消耗品代などの一部分だった。それでも研究室の予算にとっては無視できない額であり、それで利用が特定の人ばかりに偏らないように制御されていた。利用申請の際に研究の趣旨を書く必要があり、また研究成果を届けることが奨励されてはいたけれども、研究成果が出なくても計算機センターからしかられたり次の年に使えなくなったりすることはなく、所属研究室に対してだけ恥じればよかった。だから、利用者は、所属研究室から与えられた予算の範囲で、いろいろな使いかたを試みることができた。また、計算機センターには、計算結果を紙で受け取るためや、電話回線よりも速い速度でつながった端末機を利用するために、また磁気テープなどの記録媒体を読み書きするために、おおぜいの利用者が来ていたから、そこで顔を合わせた人から知識を得ることも多かった。

1980年代末には、パソコンが普及し、文書作成やゲームに使われていたが、科学計算に利用するにはやや趣味的取り組みを必要とした。大型計算機利用者にはパソコンをほとんど大型計算機の端末として使う人が多かったと思う。しかし時代は変わり始めていた。計算機を大量に使う専門分野の研究所は、大型計算機センターに負けない規模の計算機をもつようになった。また、ワークステーションと呼ばれる計算機が、まとまった研究費をとった研究室では買えるようになり、人・機械対話型のグラフィックス処理に関しては大型計算機を使うよりも便利だった。多くの研究者が大型計算機センター利用者から抜けていった。残ったのは、ワークステーションでは処理しきれない大量の計算需要をかかえた(しかし自分の専門分野に大型計算機をもつ共同利用研究所がない)大口利用者と、ワークステーションを買えるほどの研究費をとれない(またはワークステーションの維持管理に手間をかけられない)小口利用者だった。計算機センターのおもな役割はむしろ、大学の計算機ネットワークの維持管理や、各研究室がワークステーションやパソコンをそのネットワークにつなぐことへの技術支援になった。(そのころ計算機センターの出版物に書かせてもらった文章が残っている。)

わたしは、1992年に異動し、異動先にもメインフレーム計算機はあったがOS(オペレーティングシステム)が慣れていたものと違っており、また計算機利用の教育を担当する際には学生が将来も使える技術を教えたかったので、仕事をなるべくUnixワークステーションおよびMS-DOSパソコンでするように切りかえた。その後、大規模な計算サーバーのOSもUnix系になったし、LinuxなどのいわゆるPC Unixも発達した。わたしは今ではほとんどの仕事を自分のパソコンでしており、大量データ処理は今の所属機関全体で持っている計算機も使うが、いずれもOSはLinuxだ。これは計算機大量利用者の多い職場では珍しくない形態だ。ただし、わたしの計算機利用能力はワークステーションとパソコンだけを使っていた時期に世の中の成長から遅れてしまい、同業者のうちでは並になったと思う。特徴があるとすれば、多くの人がWindowsかMacでやっている文書処理までをLinuxでやっていることだ。これは個人研究型の仕事ではさしつかえなかったのだが、組織の仕事ではMicrosoft Officeの書式(しかもOpenOfficeでは互換性が満たせない細かい割りつけを含む書式)を埋めることを要求されることが多く(公金による仕事で特定会社の書式を指定するのは筋違いだとは思うがさからえず)、「わたしはコンピュータが苦手です」状態になっている。

ふりかえってみると、わたしは研究室と計算機センターの両方から計算機利用技術を習得したのだが、そのとき、研究室の先生や先輩の指導は意識したものの、計算機センターの職員(あるいはその業務を請け負っていた会社の職員)に支えられていたという意識がたりなかったと思う。計算機システムを維持し利用者の質問に答えるのは彼らの当然の職務だと思っていた。しかし彼らは高度なノウハウを身につけていた。学校で習ったことではなく、勤務の中で、一部は先輩に教えられ、一部は自分でトラブルに対処しながら学んだことにちがいない。そして、世界一流の研究を支えるサービスを提供する職務に誇りをもって取り組んでいたのだと思う。

大型計算機センターは「情報基盤センター」などの名前に変わって引き継がれている。大学内のネットワーク管理部門のほか、学生教育のための計算機センターや、図書館の電子化目録のセンターと合併したところもある。共同利用のための計算機資源の提供も続けられているが、その役割が軽くなったことはいなめない。

しかし、今も、異分野の計算機利用者の出会いは必要であり、同じ計算機資源を共同利用できる場があればそれが活性化できるのではないだろうか。ただし、その場を支える人を確保できるかどうかが問題だ。