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仏教寺院の行事に参列して思ったこと

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】
【これはまったく個人的な覚え書きで、知識を提供する記事でも、意見を主張する記事でもありません。】

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仏教のお寺の行事に参加した。

わたしは、おとなになったころから自分は仏教徒だと思ってはいるが、お寺とは (葬式や法事のほかは) かかわらないままきた。ところが両親が (親戚づきあいをきっかけに) 自分たちの墓をあるお寺の境内にもつことにきめ、それから 亡くなってしまったので、なりゆきで、わたしが檀家としてそのお寺とかかわることになった。

親族の法事のときには、住職がひとりでお経を読んでくださり、われわれが唱和する部分もあったが、静寂な時間だった。こんどの行事では、数十人の檀家の人たちをむかえて、4人のお坊さんのうち、ひとりは太鼓をたたいて、3人でお経を斉唱し、いきおいの感じられる時間だった。

行事のうちで、檀家の人びとの「家内安全」などの祈祷がおこなわれ、おふだをいただいた。

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その行事は、「仏」でも「菩薩」でもなく「天」の祭りとされており、おふだの文面も「天」による守護をいのるものだった。

わたしのこれまでの仏教についての理解では、「天」は仏教以前からインドの人が信仰していた神々を、仏教がとりこんだものだ。「天」は「天界」の住人であり、人間界の住人と同様に無常の存在だが、仏の弟子になることができる。それぞれの「天」について、仏法に帰依し、仏法の守護者になった、という説話がある。そのような「天」を信仰することは仏法への信仰につながるのだ。

しかし、檀家の個人がもともと信仰していなかった「天」を、あらたに信仰対象にくわえる意義があるのだろうか?

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上の 2a ではわざと一般的に書いたのだが、その「天」は「摩利支天」だった。

摩利支天について、ネット検索でみつかるいくつかの文書を読んでみた。サンスクリットで Mārīcī (マーリーチー) という。太陽や月にともなう小さな存在とされることもあるし、かげろう (陽炎) とされることもあるそうだ。たしかなことは、光に関係があることだ。

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光についてならば、ちょうど授業の準備をしていたところだった (かならずというわけではないが 5月にあつかうことが多い)。地球上の現象、すくなくとも気象現象は、太陽からくる光のエネルギーを原動力としている、ということができる。ただし、地球は太陽のエネルギーをうけとるばかりではない。われわれ地球上の物体も光のようなものを出している。ただし太陽よりも温度が低いので、赤外線になる。

自然界の光や赤外線に対して、災害をおこさないでほしい、われわれの助けになるように働いてほしい、とねがうことならば、わたしも本気になれる。

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一般化してみよう。自然界には、超人的な威力をもった存在がある (「超自然的」とは言っていない)。それにむかって、災害をおこさないでほしい、われわれの助けになるように働いてほしい、とねがうことが、「天」へのいのりだとすれば、わたしはそれに参加することができる。

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もうひとつよくわからないのが、このお寺の本尊が観世音菩薩であり、よまれるお経も、般若心経についで、法華経のいわゆる「観音経」の部分が重視されていることだった。

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わたしは、お寺との直接のつきあいがなかったころから、般若心経の「色即是空」は仏教の基本的思想を表現したものだという話をまじめに勉強したことはある。わたしなりに理解したつもりだが、色即是空は色即是空だとしか言えなかった。

その後、西洋の哲学にふれた。まじめに勉強したというほどではないが、Bryan Magee (ブライアン マギー) の本のカントとショーペンハウエルのところを読んだ。そして、この世界にはなにものかが実在するが、われわれが認識するのはその「物自体」ではなく、認識とともにつくられる「現象」なのだ、という理屈を知った。「色即是空」とは、「現象は物自体ではない」ということなのだろうと思うようになった。

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「色即是空」の教理を代表するものとして、般若心経でそれを論じる観世音菩薩 (その漢訳では「観自在菩薩」となっているが) がもちだされたのならば、仏教信仰として理解できる。

しかし、観音経は、(わたしはまだしっかり読んでいないが、すくなくとも「念彼観音力」がくりかえされる部分は) 観音は偉大であり、観音にたよれば困難は解消する、と言っているだけのようにおもえる。それでは仏教になっていないのではないか?

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しかし、お寺にいるあいだに、こうも考えた。「仏」あるいは「如来」は解脱した存在なので、「三千世界」のうちのわれわれのいる世界の個別のできごとをいちいち認識しないだろう。この世界でおこる問題についてたすけてくれる可能性があるのは、この世界にいながら仏をめざしている存在、つまり菩薩なのだろう。そのうちでも、この世界のあらゆることを見聞きしうる (つねに見聞きしているわけではないだろうが、ねがえば見聞きしてくれるだろう) 「観世音菩薩」あるいは「観自在菩薩」が存在するならば (この仮定に肯定的にこたえるところが信仰であり、わたしはまだそれをもちあわせていないのだが) それがたよるべき存在だろう。