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真鍋淑郎さん (ほか) のノーベル物理学賞受賞をめぐって

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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2021年のノーベル物理学賞受賞者 3人のうちに、真鍋 淑郎 さんがふくまれていた。

【真鍋さんはアメリカ国籍になってからも日本語で書いた文章が出版されることがあり、そのときの著者名を漢字で書いている。わたしもそれにあわせて漢字表記をつかう。なお、真鍋さん自身が書くときは「眞」という字体をつかっていたが、「真」と書かれていてもなおすことはなかった (と、わたしは記憶している)。わたしは両方の字体を同じ字とみなして「真」で代表させることにする。】

【わたしが教育をうけた地球物理学科の文化では (おそらく物理学者の文化を共有しているのだと思うが)、「先生」というよびかたをあまりつかわない。わたしが真鍋さんに直接むかって本人をさすときには「真鍋先生」というだろうが、第三者との話のなかで言及するときの表現は「真鍋さん」がふつうになる。わたしがいまつとめている職場の文化はそれとちがい、教員をさすときはたとえ年下であっても「先生」というのがふつうなので、そこで話題にするときは「真鍋先生」ということになりそうだ。】

ノーベル賞のウェブサイトのつぎのページに、2021年の物理学賞の報道発表があり、解説のPDFファイルがふたつリンクされている。

真鍋さんはながらくアメリカ合衆国の連邦公務員として NOAA (海洋大気庁) の GFDL (Geophysical Fluid Dynamics Laboratory) につとめていた。そして、プリンストン大学の (いまの日本の用語でいえば) 連携大学院の教授を兼任していた。1983年に、アメリカ側はサバティカル、日本側は日本学術振興会の外国人研究者招聘で、東京大学に滞在され、講義をしてくださった。わたしの気候システムに関する知識はそれによるところが多い。その講義録を本にするといいながらなしとげなかったことを申しわけなく思っている。それとだいたい同じ内容がつぎの本になっている。

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真鍋さんが受賞者にえらばれる背景には、気候変化 (地球温暖化) が世界の政治的課題になっているという状況があるだろう。

いま、世界の人間社会は、科学的知識にもとづいて、今後数十年間の気候の変化について、定量的不確かさはあるものの、大気中の二酸化炭素の増加によって、世界平均地表温度は上昇するにちがいない、という見とおしをもっている。これにいたるまでには、おおくの科学者のしごとのつみかさねがあるけれども、もしそのうちいちばん重要な人物をひとりあげるならば真鍋さんだろう。

しかし、2021年のノーベル物理学賞受賞者が、地球環境問題の解決に貢献する人という観点でえらばれたとは思えない。

まず、Parisi さんの業績は、地球温暖化とは関係ない。Hasselmann さんには地球温暖化にかかわる業績があるけれども、環境問題としての地球温暖化問題にかかわる科学者をあげるときまっさきに出てくる名まえではない。

真鍋さんは、受賞後のテレビ番組でも言っていたように、好奇心によって駆動されて研究してきた (運よくそれができる場をあたえられた) 人だ。地球温暖化の影響について警告するような発言をしたことはある。とくに、温暖化が進むと、大陸の内陸部の多くの場所で土壌水分が減り、農業生産に困難が生じるかもしれないということは、1980年ごろの研究論文の中でものべていた。(この話題は Manabe & Broccoli 2020の本では最後の第10章に出てくる。わたしの読書メモでは「その3」でふれた。) ただしその論文はシミュレーション研究の成果をのべたものであり、警告的なことはその論文の主要な論点ではなく補足的な論点だった。1988年につくられた IPCC (気候変動に関する政府間パネル) に、真鍋さんは直接かかわってこなかった。それだからこそ、2010年に IPCC が外部評価を受けたときに評価委員にえらばれたのだ ([2010-05-05 IAC (InterAcademy Council)によるIPCCのレビュー (人選)])。

真鍋さんのしごとは、大気や海洋の運動 (風や海流) をふくむ気候システムの3次元モデルをつくり、計算機を大量につかったシミュレーションをしたという特徴もある。計算理学が受賞したといえなくもない。しかし、今回の受賞の重点はそれでもないと思う。

Popular science background の文書で真鍋さんのしごとを紹介するのに 2つの図がつかわれている。第1は、大気と地表面のエネルギー収支を説明する図、第2は、Manabe & Wetherald (1967) の鉛直1次元モデルによる、大気中の二酸化炭素濃度を変えた複数の実験で得られた鉛直温度分布を比較したグラフだ。ちょっと極端にいえば、いま専門家たちが地球温暖化のみとおしに確信をもっているのは、複雑な3次元モデルによるシミュレーションを信頼しているのではなく、真鍋さんたちの1967年の論文に代表される、物理の基本であるエネルギー保存の法則と、放射伝達 (大気による電磁波の吸収・射出・透過) の適度にくわしい計算と、大気の上下の対流についての大づかみなとりあつかいによる、鉛直1次元モデルをつかった理屈を信頼しているのだ。また、もし地球温暖化問題がなかったとしても、真鍋さんの鉛直1次元モデルは、大気の対流圏・成層圏の基本的な鉛直温度分布を、物理法則と簡単な仮定にもとづいてかなりよく再現したものとして、(せまい意味の物理学ではなくて地球科学だと思うが) 純粋科学的な意義をもつのだ (そのばあいの代表的文献はひとつまえの Manabe & Strickler 1964 になるが)。

  • Syukuro Manabe and Robert F. Strickler, 1964. Thermal equilibrium of the atmosphere with a convective adjustment. Journal of the Atmospheric Sciences, 21: 361–85.
  • Syukuro Manabe and Richard T. Wetherald, 1967. Thermal equilibrium of the atmosphere with a given distribution of relative humidity. Journal of the Atmospheric Sciences, 24: 241–259.

1967年の時点で、二酸化炭素の増加による気候変化は、政治的関心から設定される研究課題ではなかった。政治的関心はすこしだけあった。アメリカ合衆国では、Johnson 大統領が、科学についての諮問委員会に、環境問題全般に関する行政の課題を検討させた。報告書は 1965 年に出ている。その委員会に、二酸化炭素による気候変化に関する、Revelle をはじめ 5人の部会がつくられた。真鍋さんの上司だった Smagorinsky がメンバーで、二酸化炭素濃度に応じて気温がどれだけ高くなるかについて、定量的にはまだよくわからないが、進行中の研究の結果が出ると答えられるだろう、というような記述がある。

  • President’s Science Advisory Committee, 1965: Restoring the Quality of Our Environment. Report of the Environmental Pollution Panel. Washington, DC: The White House. [読書メモ]

地球環境のうちで、気候については、物理にもとづいてここまでいける。そういう意味で、「物理の勝利」である。ノーベル物理学賞は、せまい意味の物理学だけでなく、発光ダイオードに代表されるように、物理を応用した工学的研究も視野にいれてきた。他方、化学賞では、オゾン層破壊の化学がとりあげられたことがある。地球環境への物理学の応用も、「物理学」としてとりあげられてふしぎはないと思う。(地球環境には、物理学の方法だけではせまれない課題もある。地球環境科学全体がノーベル物理学賞の視野にはいっているわけではないだろう。)

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Hasselmann さんの名まえは知っていた。真鍋さんの1983年の東大での講義は、日本語で話されたが、材料はプリンストンの大学院での講義と同じものだった。その目次に「stochastic climate models」という章があって、文献として Hasselmann (1976) があげられていた。しかし、東大での講義の時間数がプリンストンよりすくなかったので、その話題の講義はなかった。それで、わたしは Hasselmann の論文を見たもののしっかり読まないままきてしまった。ノーベル賞のニュースを聞いて読んでおかなければと思ったのだが、まだ読む時間をとれていない。

真鍋さんの気候モデルが、決定論的な方程式にもとづいてつくられているのに対して、Hasselmann は stochastic なモデルを考えた。ランダムな外力 (物理量の次元としては力ではなくエネルギーの流れかもしれない) を受ける力学系のモデルである。

ランダムな外力を受ければ、気候システムの状態変数もランダムな変動をおこすけれども、気候システムの特性 (たとえば熱容量) のせいで、状態変数の変動の大きさを周期帯別にわけたスペクトルは、外力のスペクトルとはちがってくる。

NHK教育テレビの「サイエンス ZERO」(2021年12月12日 23:30-) で、真鍋さんの話題がおもだったが他の物理学賞受賞者にもふれる番組をやっていた。その中での Hasselmann さんのしごとの紹介で、ブラウン運動とにたような問題だといっていた。

真鍋さんの3次元モデルのなかでは、外からあたえる条件 (太陽からくる放射や、大気中の二酸化炭素濃度など) を一定にしておいても、温帯低気圧が発生し発達し衰退するような天気の変化がおこる。もしその世界のなかで天気予報をするのならばそれはシグナルだが、二酸化炭素濃度が何十年もかかって変化するのにともなう気候の変化をシグナルとするような文脈では、個々の温帯低気圧はノイズだとみなしたい。しかし温帯低気圧の群れの効果によって周期が何十日とか何年とかの変動が生じることもあり、それとシグナルとをよりわけるためにはくふうが必要だ。そのような文脈で真鍋さんは Hasselmann (1976) を参考にしたらしい。

さて、IPCCができたころから、「温室効果の強化による地球温暖化はすでにおきているか?」という問題がたてられた。(この種類の問題を、気候変化の detection and attribution (D & A) 、日本語では「検出と原因特定」または「検出と要因分析」という。)

そこで、Hasselmann さんが提唱したのが、fingerprint (指紋) という概念だった。

  • K. Hasselmann, 1993: Optimal fingerprints for the detection of time-dependent climate change. Journal of Climate, 6: 1957-1971.
  • K. Hasselmann, 1997: Multi-pattern fingerprint method for detection and attribution of climate change. Climate Dynamics, 13: 601-611.

わたしは残念ながらその文献をまだ読んでいないが、Manabe & Wetherald (1967) からつくった簡単な例で説明する。二酸化炭素がふえることが原因ならば、対流圏の気温は高くなるが、成層圏の気温は低くなる。太陽からくる放射がふえることが原因ならば、対流圏の気温も成層圏の気温も高くなるだろう。場所のちがう気温からなるパタンを比較することによって、原因をしぼれる可能性がある。

観測データにみられる変化は、原因への応答と解釈できる、いわばシグナルと、そうでない、いわばノイズがまざったものだろう。そういうものを解釈する理屈は、たぶん stochastic climate model の理屈と一連のものなのだと思う。

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Parisi さんについて、わたしはまったく知らなかったのだが、Parisi さんが気候 (climate) について何か研究しているかと思って検索したら、Benzi ほか (1982) の論文がみつかった。

これは、第四紀の氷期サイクルの話で、大陸氷床の拡大縮小には 10万年周期がみられるが、有力な原因候補である地球の公転・自転の軌道要素変化には 2万年・4万年周期にくらべて10万年周期成分はわずかしかないという状況で、この因果関係はありうるか、という問題だ。この話題をわたしは、増田 (1993) ほかいくつかのところで紹介している。

Benzi ほかの論文をわたしはまだしっかり読んでいないのだが、おそらく、増田 (1993) の 5節で分類したうちの「(c4) eの2次の項に対する非線形共鳴応答である。」のような説明なのだろう。ただし「stochastic」ということばがはいっているように、ランダムな外力への応答という観点もあるのだろう。

参考文献には Hasselmann (1976) も出てくる。また、Suarez & Held (1979) も出てくる。この著者2人はプリンストンの大学院で真鍋さんの指導を受けた人たちで、その論文になった研究の紹介は真鍋さんの1983年の講義にも出てきた。

謝辞によれば、この研究は、Benzi さんが、NATO International School of Climatology という講習会のようなものに参加しそこで発表したことをもとにしているそうだ。講習会の講師には André Berger, Michael Ghil など、氷期の問題にからむ気候の理論家がいた。そういえば、わたしはその講習会の講義録が本になったもの (Berger 編 1981) を読んだことがある。

著者4人のうち、この論文以外でも氷期の時間スケールの気候を論じているのは Sutera だ。Barry Satlzman との共著がいくつもある。

Parisi さんの貢献はおそらく stochastic resonance の基本的考えをしめしたことで、氷期の問題に深入りはしていないだろうと思う。

  • Roberto Benzi, Giorgio Parisi, Alfonso Sutera & Angelo Vulpiani, 1982: Stochastic resonance in climatic change. Tellus 34: 10-15. https://doi.org/10.3402/tellusa.v34i1.10782
  • André Berger ed. 1981: Climatic Variations and Variability: Facts and Theories (NATO Advanced Study Institute: first course of the International School of Climatology, Ettore Majorana Center for Scientific Culture, Erice, Italy, March 9-21, 1980). D. Reidel.
  • 増田 耕一, 1993: 氷期・間氷期サイクルと地球の軌道要素。気象研究ノート, 177号, 223-248. [著者によるHTML版]
  • Max J. Suarez and Isaac M. Held, 1979: The sensitivity of an energy balance climate model to variations in the orbital parameters. Journal of Geophysical Research, 84: 4825 - 4836.

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授賞理由は、「for groundbreaking contributions to our understanding of complex physical systems」とされている。

そして、Scientific background 文書の最初に出てくる図は、有名な Lorenz (1963) の 3元連立 非線形 常微分方程式 の系の軌跡だ (Lorenzの論文の図ではないが)。

今回の授賞の正面の理由は「複雑系の物理」なのだろう。おそらく Parisi さんはそれに適した人選なのだろう。大気も複雑系の例だ。もし Lorenz さんが健在だったら、大気関係の受賞者は Lorenz さんだったかもしれない。

ただし、Lorenz の業績を3元のシステムで代表させるのはうまくないと思う。Lorenz は、大気の運動方程式を簡略化したモデルによるシミュレーションで、いわゆるカオス (微小な差が拡大すること) を発見してしまったので、その問題にしぼって検討するために、熱対流の方程式を簡略化した3元のシステムに移ったのだ。(そのあたりの事情は Lorenz 自身が 1993年の本に書いている。) また、1980年代の Lorenz は、カオス論を参照しながら、実際の数値天気予報モデルの予報可能性を検討していた。

それから、 (すくなくとも1970年代に勉強した) 気象学者にとって、Lorenz は、むしろ、大気大循環の総論 (Lorenz, 1967) を書いた人として重要なのだ。そのなかに出てくる Lorenz 自身が定式化した概念としては、available potential energy (日本語では「有効位置エネルギー」, Lorenz 1955) がある。大気のもつ位置エネルギーは運動エネルギーよりずっと大きいが、そのうち運動エネルギーに変換可能な部分をとりだしたものだ。

また、気候の変化を理論的に考える人のうちには、Lorenz (1968) がもちだした transitive と intransitive (定訳はないと思うが「他律的」と「自律的」だろうか) という概念が重要だという人もいるかもしれない。

  • Edward N. Lorenz, 1955: Available potential energy and the maintenance of the general circulation. Tellus, 7: 271-281.
  • Edward N. Lorenz, 1963: Deterministic nonperiodic flow. Journal of the Atmospheric Sciences, 20: 130–141.
  • Edward N. Lorenz, 1967: The Nature and Theory of the General Circulation of the Atmosphere. World Meteorological Organization, No. 218 (TP 115), 161 pp.
  • Edward N. Lorenz, 1968: Climatic determinism. Meteorological Monograph (American Meteorological Society), 25: 1-3.
  • Edward N. Lorenz, 1993: The Essence of Chaos. Seattle: University of Washington Press.
  • [同、日本語版] ローレンツ 著, 杉山 勝, 杉山 智子 訳, 1997: カオスのエッセンス。共立出版。