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損失の補償をもとめるのはもっともだが、生活の保障を優先しよう

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしもしめしません。】

【この記事は、個人として、社会にむけて意見をのべるものです。ただし、意見を明確に主張するものになっておらず、随想になっています。】

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「ほしょう (保証、保障、補償)」についての[2020-04-15の記事]に書いたことをかんがえたきっかけは、2020年3月29日ごろ、国や都道府県が、演劇・音楽のコンサート・見るスポーツなどの もよおしもの に対して「自粛を要請した」(とつたえられた)ことだった。

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【(この記事の論点にとっては余談なのだが) 「自粛を要請する」というのはすじがとおらない、という意見もきかれた。外国でおこなわれた同様なことが「協力を要請する」という表現でつたえられ、それならばよい、という話もあった。しかし「協力」では具体的にどのような行動をするのかわからない。「人があつまる行事をやめる(あるいは、その数をへらす、縮小する) ことを要請する」などの実態はある (それが行政がやることとして正当かどうかの問題はあって、つぎにすこし論じるが)。「自粛」ということばに、それにかかわる態度に関する精神的なふくみがあるから変なので、そういうふくみのない表現をもとめたい。表現が長めになるのはやむをえないと思う。】

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もよおしもの の主催者にしてみれば、もよおしもの を中止すれば収入はなくなるが、会場を借りたり出演者の時間を確保するための出費は免除されないものもあるから、損失が生じる。それについて、主催者が、政府 (便宜上、国と地方自治体を区別しないでこう表現しておく) は補償せよ、と要求することがある。この問題は、もよおしもの だけではなく、飲食店や小売店などの開店の「自粛」にもひろがった。「自粛」を要求されてもこまる、強制的に「禁止」してほしい、という声もあった。

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補償をもとめる根拠として、日本国憲法の第29条をあげる人がいた。(現代かなづかいになおして引用しておく。)

第29条 財産権は、これを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる。

政府が、個人や私的法人に、もよおしもの や店の開店をとりやめさせることは、私有財産を公共のためにもちいることであり、それは法的に可能ではあるが、補償が必要だ、という理屈らしい。

財産権は基本的人権ではないが、日本国憲法の原則 (それは「資本主義」だとはいえないと思うが、資本主義がなりたちうるような財産制度をふくむといえると思う)のもとでの基本的権利であり、それを政府がかってにうばうのは憲法の原則に反する。

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しかし、感染症がひろまっている事態で、いろいろな人にいろいろな損失が生じている。そのうちで、政府の指示 (禁止命令だとしても「自粛勧告」だとしても)が原因となる部分をとりわけることができるか、また、できたとしても、その補償が政府の任務のうちで優先順位が高いものか、という問題はある。

感染症の被害自体は、政府が原因者ではない。ただし、政府の政策がまずくて感染症の被害が大きくなったとすれば、そのぶんについては政府の責任があるだろう。他方、政府が原因者でなくても、感染症の被害をへらすことは政府の責務であるといえるだろう。

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政府の「自粛要請」について補償をもとめる議論はつづいていたと思うが、補償に関する議論のうちでわたしにきこえてくるものはむしろ、政府が原因者であるかどうかはともかく、感染症とその対策とにともなって、収入が減って「食えない」人を支援せよ、というものになっていった。

政府から出てくるのは、さまざまな制度による、その制度の特殊な条件にあった人たちへの支援策だった。【そのうちで中小企業への「ほしょう」があるというニュースがあったが、それが補償ではなく債務保証つきの貸しつけ だったので(厳密な返済義務のある貸しつけよりはましではあるものの) がっかりした、という話もあった。】

それから「収入が減った人に給付する」あるいは「おかねにこまっている人に給付する」という政策が提案された。「むしろ、すべての人に給付したほうがよい」という意見があった。すべての人に給付したのでは、おかねにこまっていない人にも給付することになるから、むだづかいだ、という批判がある。ところが、収入が減った人にだけ給付しようとすると、こまっている当事者が収入が減ったことの証明をつけて申請しなければならないし、政府は申請が正当なものか審査しなければならない。給付が実現するまでに日数がかかってしまうし、感染症対応だけでもいそがしい行政現場のしごとをふやしてしまう。また、不規則に仕事をうけている人は、異常事態が生じなければどれだけの収入があったかをしめすことがむずかしい。前年との差できめたのでは、あらたに仕事をはじめた人や、前年も仕事がうまくいかなかった人をたすけられない。

感染症への対応が優先される社会では、休業を事実上強制される人びとのほかに、危険のあるなかで働かなければならない人びとがいる。医療関係、運送、必需品の小売り、必需品の生産、社会インフラ維持、介護関係、働く必要のある人の子をあずかる保育関係、働く必要のある人の通勤交通などがあげられる。(網羅的ではない。) そういう人はふつうに給料をもらっている (ただし、大学病院などで、無給のまま動員されている人もいるそうだ)。いわば危険てあてとして、さらにはらうべきかもしれない。ただし、国の住民すべてに一様に給付することがそのかわりになるかもしれない。

ただし、このような給付は「補償」からはだいぶはなれたものだ。むしろ、生活の「保障」と考えたほうがよいと思う。日本国憲法で思いあたるのは、第25条だ。

第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

国全体の経済を縮小しなければならない危機なので、感染症がなかったばあいと同様な生活を保障することはできないが、政府は、健康で文化的な最低限度の生活 (その意味が問題ではあるが) を保障するような政策をとるべきだ。

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給付を要求した人たちの提案は、住民各人に一定額というものがおおかった。ところが、自民党を中心とする現在の政権からは、「世帯あたり」という形で出てくる。住民登録上の世帯ということらしい。【世帯をもちだすのは、保守思想の家族重視から出てきたらしい、という話もあったが、そういう思想の人が人数のおおい家族よりも単身者の優遇になる政策を推進するだろうか、という疑問もある。】

【さらに、マスクを国じゅうに配布するという変な政策が出てきたが、このときも「世帯あたり」とつたえられて、同様な議論がおきた。そして、現金給付を期待する人からは、各世帯にマスクを配布できるのならば、各世帯に、たとえば小切手を配布することもできるだろう、という話があった (小切手を現金にかえるために銀行に行くことができるかという問題はのこるが)。政府がわのマスク配布の計画は、郵便のうちで「全戸」に配布する制度をつかうものであり、正確には「各世帯」ではなくて「各戸」であり、この「戸」というのは郵便配達上の概念で住民登録とは連動していないのだそうだ。】

3月ごろには、給付の議論に対して「商品券をくばる」という提案が出てくることがおおかった。それはどちらかといえばその商品券の対象となる業種への支援策だった。経済の不景気に対する刺激策ならば、そういうものも有効かもしれない。しかしいまは生活の保障なのだから、汎用の「現金」であるべきだ。

「現金」といっても、紙幣や硬貨も感染のおそれがあるし、銀行に受け取りに行くことも簡単ではないから、キャッシュレスであるべきだ、という理屈もある。(うけとった人がキャッシュカードやクレジットカードをつかえることが前提になるが) 銀行口座の残額をふやせばよいのかもしれない。そこで、国はかならずしも各人の銀行口座を知らないという問題が出てくる。全員に同時に給付しなければいけないとすると、それが不可能な理由になってしまう。国は所得税確定申告をして還付をうけとった人の口座を知っているはずだし、強制徴収が必要になった人の口座をしらべることはしている。早い遅いが生じるのをゆるせば、政府にとってむずかしい仕事ではないだろう(という意見もあり、わたしもたぶんそうだろうと思った)。【ただし、財務省の権限がつよすぎることへの批判として、歳入業務と歳出業務を切りはなせと主張する人がいて、わたしはそれがもっともだと思ったこともあるのだが、いまの文脈で税務担当と給付担当とは近い関係にあるべきであることと両立するだろうかと疑問になってきた。】

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給付策などは、「経済政策」にふくめられることがある。たしかに、感染症対策のうちで、医療や検疫との位置づけのちがいをしめすうえでは、「経済」と分類されてもよいだろう。それは、各個人の生活の保障であるとともに、生活と感染症対策をなりたたせるための「経済をまわす」ための政策でもあるだろう。

しかし、これはマクロ経済として設定された目標をめざす政策ではない。(生活の保障のための政策がマクロ経済をこわしてはこまるという意味で、マクロ経済的な考慮もふくめて政策をつくることは必要だが。) 「経済政策」という表現は、話題がマクロ経済的な考慮にひきずられるので、うまくない。

マクロ経済の不景気ならば、「政府は国債をふやしてでも現金を世に出せ」というのは現実的な政策なのかもしれない (よい政策かどうかはわたしは判断できないが)。

しかし、感染症対策で経済の機能を縮小しているときに、現金だけふやしたら、貨幣価値がさがって、せっかく、生計をささえるため、また非常事態関連業務で働いてもらうために出している給付金の実質価値がさがってしまうだろう。わたしは、生活の保障のための現金給付をやるべきだと思うのだが、その額は、現金の実質価値がさがらないように配慮をしながら適切に設定する必要があると思う。