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江戸時代の人口変化の地理的分布を見る (3) 1721-1822年の調査時期ごとの変動

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしもしめしません。】

[(1) 2020-04-06の記事][(2) 2020-04-08の記事]の続き。

幕府による人口調査記録のある1721年から1846年までのうち、1721年から1822年までについて、直前の調査からの人口変化率をみた。(1822年以後については (1)の記事にしめしている。) ここでいう人口変化率は、「(後の年の人口 - 前の年の人口) / (前の年の人口) 」である。その数値に100をかけて%としてしめす。(1年あたりにしていないこと、期間の年数が一定でないことに注意。)

欠損あつかいしたところについては (1) の記事にしめしている。それにくわえて、速水(監修) (1992)の注の推測にしたがって、1756年の加賀と能登の数値を入れかえた。

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1721 (享保 6) -- 1750 (寛延 3)年、29年間
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東北地方と、近畿・山陽東部で人口減少。山陰・山陽西部では増加、四国・九州でも増加しているところが多い。そのほかはあまりまとまった特徴がみられない。期間が長いのでさまざまな要因がきいているだろう。

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1750 (寛延 3) -- 1756 (宝暦 6)年、6年間
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全般に変化が小さい。石見の増加、出雲の減少は、つぎの1756-1786年に逆符号になっているので、1756年の値が、石見で過大、出雲で過小なのだろう。播磨の増加は、まえの1721-1750年に大きな減少がみられるので、1750年の値が過小なのかもしれない。河内の減少も疑問を感じるがデータの問題ともいいきれない。

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1756 (宝暦 6) -- 1786 (天明 6)年、30年間
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東北・関東の全部の国で人口減少。全国合計の人口は6年ごとの値が残っており、明確に減っているのは1780年以後なので、1780年以後の、いわゆる「天明のききん」(浅間山噴火の直接の影響もふくむ)の結果がおもに見えているのだろう。近畿・山陽東部でも減少。そのほかは地方でまとめるよりも国ごとに考える必要がありそうだ。石見の減少、出雲の増加は上にのべたように1756年のデータに疑問がある。能登の減少は、つぎの1786-1792年に逆符号になっているので、1786年の値が過小と思われる。

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1786 (天明 6) -- 1792 (寛政 4)年、6年間
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全般に変化が小さい。下野をはじめとする関東東部(安房をのぞく)に減少がみられる。能登の増加は1786年の値が過小と思われる。甲斐の減少は、つぎの1792-1798年に増加しているので、1792年の値が過小である可能性がある。

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1792 (寛政 4) -- 1798 (寛政 10)年、6年間
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中国地方から中部地方 (北陸・東山・東海をふくむ)にかけて増加しているところが多い。

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1798 (寛政 10) -- 1804 (文化 元)年、6年間
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全般に変化が小さい。

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1804 (文化 元) -- 1828 (文政 5)年、18年間
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大部分のところで増加傾向。ただし東北東部と関東では変化が小さく、関東のうち上野・相模では減少。