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「永遠に続く経済成長というおとぎ話」

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

【この記事は、わたしの個人的事実認識と意見をのべるものです。この話題はおもに気候変化にともなう社会の変化に関するものであり、わたしはその専門家ではありませんが、関連分野である気候変化の自然科学の専門知識から接近しています。】

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2019年9月23日、スウェーデンの少女 グレタ トゥンベリ (Greta Thunberg)さんが国連総会の場で演説した。その文章は、たとえば日本語訳で NHK のサイトのこのページ https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190924/k10012095931000.html に紹介されている。(日本の報道機関のサイトのウェブページは長期にわたって維持されない可能性が高いが。) この演説について、ネット上で、賛否両論がはげしくかわされたようだ。発言態度についての議論が多かったが、内容にかかわる議論のうちで、わたしの気にかかったのは「永遠に続く経済成長というおとぎ話」と表現されたところについての議論だった。演説は英語でされたもので、この語句の原語は「fairytales of eternal economic growth」である。この表現の背景となっている認識は「経済成長が永遠に続くという認識は非現実的である」(「文A」としておく) ということだろう。文Aが真だと思う人と偽だと思う人とのあいだでは、なかなか共通認識に達しない。ただし、そのくいちがいには、事実認識のちがいのばあいと、文Aをどのような意味に理解するかのくいちがいのばあいがあったと思う。

ここでは、文Aを (わたしの仮の表現で)「弱い意味」「やや強い意味」「強い意味」の3つの解釈をして考えてみたい。わたしは3つのいずれの意味でも文Aは正しいと思っている。そして、「弱い意味」と「やや強い意味」については、なるべくおおぜいのかたに賛同していただきたいと思っている。「強い意味」については、現代 (20世紀からいままで) に生きる多くの人にとって承服しがたいものだろうと思う。したがって、これからの経済政策に関する提案は、「強い意味」での文Aをみとめない人でも賛同できるような形でつくっていく必要があると思っている。

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「弱い意味」というのは、文Aでいう「経済成長」を、経済成長全般ではなく、「気候変化を無視したとき期待される経済成長」という意味にとることだ。

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このグラフは実際の数値ではなく概念図としてつくったものだが、横軸が時で、縦軸が世界経済全体の規模をあらわす数量だとする。もし気候変化の影響がなくて、経済が順調に発展したばあいは、○でしめしたように指数関数型の経済成長が可能だとしよう。しかし、気候変化の影響がさけられなくなりそうだ。それは、たとえば、ある地域の農地の生産力が落ちるといった形でおこるだろう。そこで、グラフの実線では、ふだんは○と同様な正の成長率をもつのだが、ときどき成長率が負になる、という状況を表示してみた (この例では、いつ負になるかは気まぐれにあたえた)。地球温暖化が進む世界の経済としては、実線のほうが現実的で、○は現実的でないだろう。うまく対策をとれば (二酸化炭素排出削減策などの「緩和策」と、適応策との両方をふくむ)、成長率が負になるような影響をさけられるかもしれない。そのかわり、対策につかわれたおかねは経済成長に貢献できないことが多いだろうから、経済成長率は○のばあいよりもすくなくなるだろう。そのような状況を破線で表示してみた。破線のようにうまくいけば、経済成長をつづけることはできる。ただ、それは気候変化を無視したばあいの経済成長とはちがうのだ。

気候変化(地球温暖化)の悪影響がありそうだという見とおしをみとめるかたには、この議論はわかっていただけると思う。悪影響がありそうなことに納得されないかたにむけては、影響評価のなかみにたちいって説明する努力をつづけたいと思う。

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「強い意味」というのは、経済の規模には地球環境(かならずしも気候にかぎらない)の容量からくる限界があるので、永遠に成長をつづけることは不可能だ、という考えだ。関連する概念として、ひとまず「成長の限界」(1972年に出た本の題名)、「地球の限界」(1999年に出た本の題名)、「planetary boundaries」(2009年に出た論文のキーワード)をあげておく。

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このグラフで上の破線が限界だとする。○でしめした指数関数型に成長する経済は、限界に激突して、こわれてしまう。実線は、いわゆるロジスティック(logistic)式で、限界にちかづくにつれて成長率がさがり、限界にちかい値に漸近していく。

地球環境の容量からくる限界によって制約されるのは、人間社会の活動にともなう物理量だ。人間社会が1年間に使うエネルギー量がその代表例だ。現在は化石燃料をつかっているが、それは持続可能でない。核エネルギー利用も持続可能といえるような技術はできあがっていない。持続可能なエネルギー資源にかぎると、おそらく人間社会が現在使っている(化石燃料や原子力によっているぶんをふくむ)量よりも低いところに限界があるだろう。

そこで、ここまで「強い意味」といってきたことがらをふたつにわける。

「やや強い意味」というのは、経済活動にともなう物理量が永遠に成長するのは不可能だ、ということだ。これについては、おおくのかたにみとめていただけると期待している。反論があるとすれば、「利用可能な資源はまだたくさんある(ので、理屈のうえで限界はあっても、現実的には限界を気にしなくてよい)」という理屈だろうが、そうは言えないことが planetary boundaries 関連の研究でわかってきたのだ。

経済自体の尺度でみても、永遠につづく経済成長は不可能だ、というのを、あらためて「強い意味」としよう。

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物価があがるだけのインフレは経済成長ではない。ふつう経済成長というのは、インフレを補正した実質貨幣価値でみた経済活動の規模が大きくなることだ。

物理量がふえなくても、物理量の単位量あたりの実質貨幣価値が大きくなるならば、経済が成長することはできる。だから、地球の限界があっても「経済成長が不可能になる」とはいえない。

物理量の単位量あたりの実質貨幣価値を大きくすることは、経済活動にともなう物理量をふやすことよりもむずかしい。だから、地球の限界のもとでは、たとえ政策がわるくなくても、経済成長ができるかどうかは不確かになるだろう。経済成長が「永遠につづく」ことを期待するのは非現実的とさえ言えると思う。だから、わたしは、この「強い意味」でも、文Aは正しいと思っている。この件についてのわたしの考えは、[2019-09-11の記事]の第3節に書いた。

しかし、20世紀後半からいままでの経済のなかで生きてきたわれわれの経験では、経済が成長するときは「景気がよい」が、成長がとまると「景気がわるい」。景気がわるいと、失業者が多くなり、たぶん自殺者も多くなる。景気がわるい社会をつくりたくなければ、経済を成長させる政策をもとめることになる。そういう人びとにとって、成長がつづくことは不可能だという事実認識はうけいれがたい。しかし、うけいれなかったからといって事実はかわらない。人間社会を、経済が成長しなくても不景気にならないように改造する必要があるのだと思う。いまのところこの認識をもつのは少数派だから、個別の政策について、経済成長は必須だと思っている人にもうけいれてもらえるような提案を出していくしかないだろう。