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富の再分配と文化資源への平等なアクセスが重要 -- 税制、財政、経済政策への意見

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

- まえおき -
わたしは税制、財政、経済政策などについてはしろうとだ。しかし、個人として、また国民のひとりとして意見をいいたいことはある。さらに、地球環境について(のある側面)の知識をもつ人として (国のお金でその知識を身につけさせてもらった者として)、やや特殊な意見をいう責任のようなものを感じることもある。

【経済が成長している社会の恩恵をうけた世代の人でありながら、次の世代の人が同じことを追求するのを否定することは、道義的にまずい、という論があることは承知している。しかし、事実として経済成長が期待できないときに、期待できるとうそをつくのは、もっと道義的にまずいと思う。】

このような話題で意見がちがう人とも、学術的な話題では議論がつづけられることを希望する。

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社会主義をなのる体制がおとろえたいま、経済は資本主義にまかせるのが当然のようになっている。しかし、資本主義にまかせたのでは富の不平等が強化される (これは、必然ではないとしても、おこりやすいことだと言ってよいと思う)。富の再分配、および、所得や財産のすくない人でも人類共有の知識や文化にアクセスできるような体制が必要だと思う。そのためには、(ほかの手段も併用するとしても) 国が税金をとってそれを使うことが必要だと思う。

ふるくからの庶民の感覚として、税金は為政者がかってに使うものであり、庶民のためになるとは期待できないから、税金は安ければ安いほどよい、というものがある。わたしは外国との比較についてよく知らないのだが、日本は古代も封建時代も今もかわらずそういう思想がねづよいのだと思う。そこで、増税をふくむ政策をかかげる政治家は大衆からはきらわれる。(しかし、国の事業の必要性を考える人びと --その視点はエリート的といわれがちだが-- からはほめられることもある。) この庶民感覚と、経済は自由な資本の活動にまかせて政府の介入は最小限にしたほうがよいという「小さい政府」主義とは、本来別のものなのだと思うが、いま (1990年代以来)の日本の傾向は、「小さい政府」主義者が庶民感覚を利用して、公務員がやっていた庶民むけサービスを減らしているのだと思う。

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「国の富」というとき、「国」(国家)という表現の、おおきくわけて二つの意味を区別する必要がある。くるしまぎれの表現だが「国民経済」と「統治機構」としておく。

「国民経済」とは、その国がしめる場所でおこなわれる、個人や法人による経済活動全体だ。人が国籍をもつかどうかには関係ないから「国民」ということばは不適切で、その点では「人民」とでもするべきなのだろうが、世界を国家ごとに区分するという考えにたっているので「国」をはずせない。GDPはこの意味での国民経済の(金銭にかぎらないが金銭に換算できる価値の)流れの量の指標である。「国富」は国民経済の(同様な価値の)たまりをさす。

「統治機構」は、国の立法・行政・司法にわたるしくみである。実際には行政が主となるが、「行政機構」とするのは適切でないと思った。「歳入」「歳出」は統治機構にとっての金銭の流れである。たまりの量は、金銭にかぎれば「国庫」にあるおかねだが、国有財産もふくめるべきだ。さらに、中央銀行(日本のばあいは日本銀行)も「統治機構」の部分としてはたらいており、統治機構の流れとたまりの評価は、国家財政だけでなく中央銀行をふくめてするべきだと思う。

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体制内も反体制もふくめておおくの論者が、経済が成長するのがよいとし、国は経済成長をめざすべきだとする。ここでいう経済成長は、国民経済の量的拡大だ。ただし、金銭の単位ではかった名目GDPがふえても実質的な成長とはいえない。実質的な経済の大きさをきちんと評価できるのかについては疑問もあるが、名目GDPを物価指数のようなもので割ってえられた「実質GDP」の増加が経済成長とみなされるのがふつうだ。

わたしは、すくなくとも現在の日本の状況まで産業が発達した国では、経済成長を、政策の最重点の目標にしてはいけないと思う。

現代の経済のしくみは、経済が成長しないと失業者が多くなっていろいろな意味で「不景気」になる、という構造をもっている。そのもとでは、経済を成長させない政策は悪い政策だとされるのは当然かもしれない。

しかし、いまの世界人類は「地球の限界」(planetary boundaries)に直面している。天然資源と自然環境にかぎりがあるので、人間活動の規模を大きくしつづけることはできないのだ。

できないのは、人間がひとりあたり消費する資源の量をふやしつづけることだ。単位時間あたりのエネルギーの流れや、単位時間あたりの質量の流れなどの、物理量の成長が、もはやゆるされないのだ。

金銭の尺度でみた経済成長が不可能になったわけではない。ただし、そのためには、同じ大きさの物理量がもつ金銭的価値がたかまらなければならない。これは努力すればかならずできることではなく、運もよくないといけないと思う。だから、これからの政策は、経済成長ができなかった場合も許容しなければならない。国の政策は経済成長依存から脱却しなければならないのだ。(ここで必要なのは「依存」からの脱却であって「成長」からの脱却ではないが、「成長」しなくてもよいという態度をとることではある。) GDP成長率がいくらかマイナスであっても無収入の人が多くならないように、社会体制をかえなければならないのだ。

【物理量の成長にかぎりがあっても、情報の成長にはその制約は直接きかないのだから、情報に特化した経済成長はありうる、という理屈がある。ある程度は、そのとおりだと思う。しかし、情報産業や金融業が圧倒的に大きなおかねを動かすようになった社会はのぞましくないと思う。人の生存に不可欠だがあまり成長できない農業などの業種の発言力が相対的にちいさくなってしまうこと。情報産業や金融業の成功者とその他の人びととのあいだの富の格差が大きくなるだろうこと。情報産業や金融業でおこるちょっとしたゆらぎが社会の多くの人の生き死ににかかわるような社会変動をおこしうるだろうこと。】

【金融業は不動産業とつながっていることが多い。金銭の尺度でみた経済活動が成長していると、金銭の尺度でみたオフィスビルディングの価値があがる。しかし、オフィスを実際に使う需要にはかぎりがあるし、収益がなくても維持経費や(いつかは)解体経費がかかるから、これも、かぎりなく成長をつづけられる道ではない。[2019-09-16 補足]】

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わたしは再分配が必要だと思っているから、統治機構におかねを集めることが必要だと思う。税収をへらす政策には賛成できない。

税率をあげないほうが、経済成長が促進されるから、税収があがるはずだ、という理屈をとなえる人もいる。ときにはそういうこともあるかもしれないが、経済がじゅうぶん成長する保証があるわけではないから、わたしはそういう政策には賛成しない。

税金をあげないで、国債を発行して、再分配そのほかの国の事業をやるべきだ、という理屈をとなえる人もいる。わたしは、小規模にはそれがあってもよいかもしれないが、大規模にやってはいけないと思う。

国債は、統治機構の借金ではあるが、借り手の大部分は国民や国内の法人だから、国民経済にとっての借金ではない、というのはもっともだ。国庫の赤字を家計や会社の会計の赤字との類推でとらえて、国債残高をゼロにちかづけるべきだというのはまちがっている、というのももっともだと思う。

しかし、統治機構の借金がいくらでもふえてよいというものでもない。国債を買う人がいるのは、国(統治機構)に(経済の意味での)信用があるからだ。その信用の根拠は、国(統治機構)が税金をとるはたらきへの信頼だと思う。もし国民のうち多くの人がいっせいに税金をはらわなくなり、脱税をとりしまる公務員も働かなくなったら、国債もねうちのない紙になるし、国の事業もできなくなるだろう。

「お札(さつ、中央銀行券)を刷ればよい」という人もいる。

しかし、単純に考えれば、通貨がふえても国民経済がゆたかになるわけではなく、通貨の単位あたりの価値がさがる、つまりインフレになるだけだろう。国民経済のうちの移動はいくらかあり、統治機構にとって有利になるので、実質的増税になるのかもしれないが。

もし、国民経済が、通貨が不足しているために活動がさまたげられている状態にあるのならば、通貨を補充してやることによって、経済活動が活発になって、実質的な富がふえることもあるのかもしれない。(どういう条件でこのようなことがおこるのか、わからないが。)

そのほかの効果を考える際には、中央銀行券を通貨とみるよりも、国債と同様なものとみたほうがよいのかもしれない。そうすると、国債についてのべた議論があてはまると思う。

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わたしは、消費税の増税(税率をあげること)に、基本的には反対だ。消費税は逆進的だ (貧しい人の負担が大きい) と思うからだ。

しかし、消費税増税反対を主要な争点にして団結することには積極的になれない。そうすると「小さい政府」論者を支援してしまうことになるだろうからだ。主要な争点は、富の再分配、そのための累進課税であるべきだと思う。

【また、たとえ逆進的であっても、消費税はなくさないほうがよいかもしれないと思っている。再分配をふくむ国の事業は、もし「不景気」が なん年も続いても維持されなければならない。所得税や、企業の利益に応じた法人税だけでは、税収がほそってしまう可能性がある。国が不景気にそなえて大きなたくわえをもつことは現実的でないし、国債でまかなうことも、不景気がおわるみとおしがつかない状況では、量をあまりふやせないだろう。たとえ不景気でも人の生活があり消費活動があるかぎりは税収があるようにしておかないといけないと思うのだ。もっとよい方法があれば消費税にはこだわらない。】

【再分配を重視した税制としては、相続税の税率は高くするべきだと思う。しかし、家族の生業がつづけられるために、また、文化財に準ずる価値のあるものがこわされたり散逸したりすることをふせぐために、遺産が遺族と公共部門との共有になるような「持ちぶん納税」を可能にするべきだと思う。公共部門に複雑な財産管理機能をもたせる必要があり、費用がかかることを覚悟しなければならないが、それをまかなえるような税率にすれば可能だろうと思う。[2019-09-16 補足]】