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地球温暖化懐疑論について、2016年12月の時点で考えること

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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地球温暖化懐疑論は、2006-2010年ごろによく聞いたのだが、少なくとも日本語圏では、最近は下火になっていると感じている。しかし、アメリカ合衆国では続いており、さらに、その大統領選挙で当選したTrump氏が当選後も温暖化懐疑論的発言をしているらしいので、政策決定にも影響をおよぼす可能性があるかもしれない。そこで、わたしとしても、温暖化懐疑論に対してどのように対応するか、考えておく必要があると思った。いくつかのちがった観点に思いあたり、それを並列に書き出しておくことにしたので、ひとつの筋のとおった論説になっていないことをおことわりしたい。

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「地球温暖化懐疑論」または「温暖化懐疑論」(ここでは両者は同じことだとする)ということばの意味の広がりは、人によって、あるいは文脈によって、ちがうことがある。

いずれにしても、これは、すべてを疑ってかかる哲学的懐疑論ではない。

温暖化懐疑論の一例として、「温室効果は熱力学第2法則に反する」という主張[注]がある。そのような主張をする人は、熱力学第2法則を疑ってはいないだろう。

  • [注] その具体的な議論としてよく聞かれるのは、熱が伝わる向きは高温から低温へに決まっているという認識を前提としたものだ。それは熱伝導の場合は正しいのだが、放射(電磁波)によるエネルギー輸送については正しくない。

他方、温暖化懐疑論に否定的な立場は、温暖化に関する科学的知見を無条件に信頼する立場ではない。一般に、ほとんどの科学的知見は絶対的真理だとわかっていることではなく、まちがいであるかもしれないという疑いは正当なのだ。ただし、すべてを疑ったら学術的議論を組み立てられないから、ひとまずいくつかの前提を真であると仮定して組み立てる。つじつまがあわない結果が得られたら、前提をひとつずつ疑ってみるだろう。このような疑いをもつことも「懐疑的態度」と言うことはできるが、そういう態度をとる人を「懐疑論者」とは言わないだろう。

「温暖化懐疑論」の場合の「懐疑論」は、否定論に近い意味だ。「温暖化はウソだ」と言うことは、温暖化否定論と呼ぶのがふさわしいが、「温暖化はウソである可能性がかなりある」と言う態度が、ここでいう温暖化懐疑論だ。

「温暖化はウソだ/ホントだ」という表現の意味も、人によってあるいは文脈によってちがうかもしれない。わたしの考える「地球温暖化はホントだ」という主張の意味は[2016-11-04の記事]に書いた。したがって、わたしは、温暖化懐疑論とは、

「今後約百年間の気候について、『人間社会が化石燃料の利用による二酸化炭素の排出を続ける限り、気候の変化はおもにそれに支配され、世界平均気温は上昇するだろう』という見通しが偽である可能性がかなりある」

という主張をさす、ということにしたい。

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2000年ごろから、地球温暖化は、

『温度上昇がすでに起きている』、そして
『その原因は人間活動由来の二酸化炭素である』
(*)

という形で提示されることが多い。したがって、これへの懐疑論、つまり

『温度上昇は起きていないだろう』、または
『温度上昇がすでに起きているとしても産業革命前にもあったゆらぎの範囲内だろう』、または
『温度上昇の原因は人間活動由来ではないだろう』
(**)

などの主張が、温暖化懐疑論と呼ばれることも多い。

しかし、(*)が正しいことは、今後約百年間の温暖化の見通しにとって、必須ではないのだ。

(*)のような議論は「detection and attribution (検出と原因特定)」と呼ばれるので、それを略して「D&A」と呼ぶことにする。そしてそれを疑う(**)のような議論を「D&A懐疑論」と呼ぶことにする。

D&Aは、今後約百年間の温暖化の見通しよりもデータによる裏づけが少なく、不確かさが大きいのはあたりまえなのだ。

D&Aが疑わしいというだけの話ならば、「温暖化はウソだ」ということにはならない。ただし、温暖化懐疑論を主張したい人が、まずD&A懐疑論を持ち出し、それだから温暖化の見通しは疑わしいと論じることは多い。それに対応するには、D&A懐疑論に反論するか、D&Aが温暖化の見通しにとって必須でないことを理解してもらうか、どちらかが必要になる。

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温暖化の見通し(科学的知見)に対する懐疑のほかに、温暖化対策の必要性(社会的価値判断)に対する懐疑、というべきものがある。「温暖化は起こるだろうが、それは人間社会にとって困ったことではない(あるいは、もっと大問題があるのでそれに比べれば無視したほうがいい)」というような主張だ。わたしはこのような議論を「温暖化無問題論」あるいは「温暖化問題懐疑論」と呼びたい。

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明日香ほか(2009)では温暖化懐疑論の幅を広くとらえた。そこで温暖化懐疑論として扱われているものには、ここでいう温暖化懐疑論、D&A懐疑論、温暖化無問題論を含む。

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藤原・喜多川(2016)は温暖化懐疑論に関する日本の出版物について調べた。対象は明日香ほか(2009)を参考にして地球温暖化の科学的知見への懐疑と対策の必要性への懐疑を含めている。

日本の新聞記事(新聞社の記事データベースに収録されたもの)にはほとんど温暖化懐疑論は見られない。

日本での温暖化懐疑論を含む書籍の数は2006年以後に多くなった。英語圏の温暖化懐疑論の本では著者や出版者が保守系シンクタンク関係者であることが多かったが、日本では著者や出版者は多様である。

違いの理由として、日本の石油産業は石油メジャーとは利害が違うこと、日本では保守政治家の一群(「新環境族」と呼ばれた)が地球環境問題を政策課題として積極的にとりあげたことなどがあげられている。

この結果は、わたしがなんとなく感じていたことと一致し、それがデータで裏づけられたと思う。

ただし彼らが参照した英語圏の研究(Jacquesほか, 2008)は2005年までに出た温暖化に限らない環境問題への懐疑論を含む本を対象としたものであることに注意が必要だ。

また、Jacquesほか(2008)のいう「保守系」(conservative)と言うことばが、1980年代以来のアメリカ合衆国の政治の文脈で、政治思想を大きく「保守」と「リベラル」に二分する立場で使われていることにも注意が必要だ。「保守系シンクタンク」とは何かを述べているところの初めの部分を訳してみる(そこからの文献参照は省略した)。

保守系シンクタンクは、非営利の、公共政策に関する調査とadvocacyをする組織で、「自由企業」「私有財産権」「小さい政府」「国防」などの保守の中核的理念を推進するものである。従来のシンクタンクは適度に「客観的」な政策分析を提供したが、保守系シンクタンクは遠慮なく保守的な目的をめざす「advocacy」をする組織である。

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最近わたしは、ネット上の日本語圏で、温暖化懐疑論を見かけた。気候以外の件での政治的主張が大きくちがう複数の人が、温暖化に関しては似たような懐疑論を強く主張していた。本気でそう思って言っているのか、正しくないことを承知でウソをついているのかを判断するのはむずかしいが、アメリカの石炭・石油産業の利害関係者や小さい政府論のイデオローグとはちがって、ウソをついてまで温暖化対策を妨害する動機はなさそうなので、たぶん本気で思っているのだろうと推測する。

わたしが見た温暖化懐疑論者は、ほかの話題での論調から推測すると、自分の持論への信頼が強い人であるらしい。そして、自分の外に情報源を求めるときには、日本国内よりもアメリカに求める傾向がある。そういう人が、たまたま信頼していたアメリカの情報源から温暖化懐疑論をしいれて、自分の持論に組みこんでしまうと、いつまでも維持されてしまうようなのだ。

(日本のマスメディアは、メディア自身が温暖化懐疑論を主張することはめったになく、懐疑論者の発言を伝えたり記者個人が懐疑論をとなえたりすることはあるにはあるが散発的だ。しかしアメリカでは、両論併記の形で温暖化懐疑論をとりあげる場合が多く、共和党支持のメディアのうちには温暖化懐疑論が基調になっていることもあるようだ。)

アメリカで温暖化懐疑論を主張する人は、資本主義企業の自由を主張する人とかさなる傾向があるのだが、日本の出版物やネットで温暖化懐疑論を主張する人の政治思想は多様で、そのうちには、明らかに反体制・反-大資本の人もいる。そういう人が、多くは「保守系シンクタンク」から発信された温暖化懐疑論を信頼して自分の持論に加えてしまうことがよくある。わたしはながらくふしぎに思っていた。

しばらく考えてみると、アメリカなどの自然科学者(おもに気象と関係ない物理学者あるいは地質学者)が、「保守系」の政治的主張をとりはらって、科学的知見への懐疑の形にしたものが、政治思想のギャップをとびこえて、日本の反体制的な人に受け入れられることが多いようだ。

市場への規制に反対することの一環としてCO2排出規制に反対する勢力は、宣伝戦術にたけた人を使えるので、政治傾向はだいぶ違っていてもCO2排出規制反対論には賛同しそうな人を動かすために、意図的に政治的主張を薄めて、科学論争の形をとって広めている可能性はあると思う。

しかし、意図せずに、科学論争化によるとびこえがおきていることも多いと思う。

【「科学の政治化」(politicization of science)ということばがある。科学研究の内容が政治的動機によって動かされることなどをさす。温暖化対策への賛否などの政治的論争が、温暖化の科学的知見に関する論争の形をとることも、「科学の政治化」に含める人もいたが、これはむしろ「政治の科学化」(scientization of politics)だと言われるようになった。】

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世の中に出まわっている文章やテレビ番組の中には、「温暖化する見通しがあり、温暖化対策が必要である」、という基本的主張はわたしから見てももっともであるものの、その内わけや論調が極端すぎてわたしには賛同できないものもある。(そのようなものをわたしは「温暖化脅威論」と呼ぶことがある。)

温暖化脅威論への批判に限っては、温暖化懐疑論者のいうことのほうが正しいと思うこともある。しかし、文字数の限られた場で、この認識を伝えることはむずかしい。(温暖化懐疑論者の文章であっても、温暖化脅威論者の文章であっても) その特定の論点に賛同を表明したことが、その文章全体の論旨に賛同したかのように伝わってしまう可能性はかなりある。論点を分解して述べるには、長い文章を書くことや、長い問答を続けることが必要であり、それができる場が必要だ。

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Trump政権で地球温暖化に関する政策がどうなるかは、予断で決めつけないほうがよいと思う。

しかし、ひとまず、わたしの主観的推測を述べてみる。

  • 地球温暖化の科学的見通しが大きくゆらぐことはないと思う。ただしその不確かさが強調されるだろう。気候の科学の研究が「不確かだからもっと研究が必要だ」という理屈で奨励されるか、削る対象になるかは、どちらもありうる。
  • 「温暖化無問題論」が聞かれやすくなり、二酸化炭素排出削減策やそれに関する技術研究は停滞してしまいそうだ。
  • 意図的気候改変(気候工学、geoengineering)の研究が推進されるかどうかも、どちらもありうる。温暖化無問題論に徹すればこれも不要なはずだが、「低い確率で危険があるので非常処置を用意しておく必要がある」という主張が勢いをもつ可能性もある。

文献

  • 明日香 壽川, 河宮 未知生, 高橋 潔, 吉村 純, 江守 正多, 伊勢 武史, 増田 耕一, 野沢 徹, 川村 賢二, 山本 政一郎, 2009: 地球温暖化懐疑論批判 (IR3S/TIGS叢書 1)。東京大学サステイナビリティ学連携研究機構(IR3S)・ 東京大学地球持続戦略研究イニシアティブ(TIGS)。80 pp. [わたしの読書ノート] なお、筆頭著者のウェブサイトhttp://www.cneas.tohoku.ac.jp/labs/china/asuka/database.html にPDFファイルがある。
  • 藤原 文哉、喜多川 進, 2016: 温暖化懐疑論はどのように語られてきたのか。気候変動政策の社会学 (長谷川 公一, 品田 知美 編, 昭和堂), 159-184. [この文章を含む本の読書メモ(暫定版)]
  • P. J. Jacques, R. E. Dunlap & M. Freeman, 2008: The organization of denial. Environmental Politics, 17, 349-385. http://doi.org/10.1080/09644010802055576