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オリンピック問題 (2) 近代オリンピックの制度に無理がきていると思う

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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オリンピックそのものについて、このまま続けてはまずいのではないかと思うことが、いろいろある。

【しかし、わたしのオリンピックや各競技に関する知識はとても断片的だ。1960年代の小学生のころに、子ども向けのオリンピックに関する本や功労者の伝記などを読んだ。また、おとな向けのスポーツのルールブックをよくわからないままながめた。あとは、ときどき、関心がなくても逃げられないほどその話題があふれたときに新聞やテレビから情報を受け取ってきた。そして、いま、ウェブ検索をして、Wikipedia記事などをながめている。だいたいそれだけだ。だから、ここで述べることがまちがっている可能性はかなりあると思う。】

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第1に思うことは、オリンピックに限らないのだが、(各時点での)世界の頂点をめざして少人数の選手を訓練することが、(見るスポーツとして多くの人の娯楽になりうることは別として) 多くの人の体育あるいはレクリエーションとして有効な自分でからだを動かすスポーツの振興につながると言われるけれども、それはほんとうか、という疑問だ。

選手用も大衆用も同じものが使えるならば、選手用をきっかけとして、競技の道具とか、競技実施のノウハウとか、競技の中での技とか、トレーニングの方法とかが発達することは、大衆のためにもなることがあるだろう。

しかし、頂点の選手に必要な技が、大衆にはまねができないものばかりになり、選手の使う道具が、大衆には値段が高すぎるものになってしまうならば、選手のスポーツと大衆のスポーツとは無縁になっていくだろう。

また、資源を奪いあうことになるかもしれない。たとえば、ひとつの運動場を、選手の訓練のために占有することによって、一般の生徒が放課後に自主トレーニングをする機会が減るかもしれない。

国の予算の配分としては、大衆のスポーツに向けるものを、選手のスポーツに向けるものよりも優先して考えるべきだと思う。

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第2に、オリンピックは国境を越えた人々の連帯感を強めるのに役立つのか。

近代オリンピックが、古代ギリシャオリンピア競技の故事にならって、1896年にアテネで始められた事情を見ると、国際平和に役だつという期待があったように思われる。

19世紀、世界は国民国家に分割されていった。土地も人も原則としてひとつだけの国に属することが明確になっていった。そして、国と国のあいだで、ささいなことから戦争が起きる可能性があった。

そこで、ちがった国の人が集まって戦闘ではない何かをいっしょにやる機会をつくるべきだと考えられたのだろう。さらに、競技別の大会では顔をあわせる国が限られがちなので、多種類の競技をやることによって、多くの国の人が顔をあわせるのがよいと考えられたのだろう。

選手がそれぞれ国籍を示すことは、必要なのかもしれない。

ただ疑問なのは、チーム競技の場合に、国別にチームをつくって、国どうしの対抗に見える形にすることが、適切なのかだ。近代オリンピックの初期にはそうする必然性があったとしても、今もあるのか。慣例にとらわれずに考えてみたほうがよいと思う。

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第3に、商売との関係。

近代オリンピックの初めから1970年代までは、オリンピックはアマチュアスポーツの大会であり、プロは除外する、という原則がはっきりしていた。なぜそうなったのかは、近代オリンピックの初めごろのプロスポーツの状況をよく知らないと論じられない面もあると思う。しかし、近代オリンピックを始める中心となった人々が、お金に不自由していない貴族や有閑ブルジョアだったということはたぶん言えるだろう。そのなごりは今もある。IOC (国際オリンピック委員会)の委員には、あちこちの王族が含まれている。そのみんなではないが多くがもと馬術の選手だそうだ。

しかし、とくに1950年代以来、ソ連などの共産主義国では、国営企業の労働者という形だが、競技に専念できる選手が出てきて、よい成績をおさめた。資本主義国でも、企業が(宣伝などの効果をねらって)選手を社員として雇いながら競技に専念させる場合もあった。国の代表チームの強化訓練には国が資金を出すこともある。アマチュアの意義はよくわからなくなってきた。

国の関与は強まっていくかに見えたが、1984年のロサンジェルス大会では、アメリカ国民が税金から大会運営資金を出すことを嫌ったので、資金稼ぎのための商業化が進んだ。おもなもののひとつはテレビ放映権、もうひとつは公式スポンサー制度だった。また、このころから、プロ選手をこばむ理由はないと考えられるようになった。ただし具体的なルールの変更は競技ごとに違ったペースで進んだようだ。

このごろ、(詳しい議論を追いかけきれていないが)、この商業化がもたらす弊害が現われているように思う。

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第4に、規模の拡大。

第2次大戦後、旧植民地の多くが独立国となり、オリンピックにもそれぞれ参加するようになった。

それとともに、競技の種類もふえてきた。日本も、柔道や野球を加えることを積極的に働きかけてきた。

また、男女同権の考えが高まってきたのを受けて、男子だけだった競技の多くが、男子・女子それぞれの競技をするように変わってきた。

対象とする競技の範囲についてはたびたび見なおしがある (たとえば野球は含まれたり含まれなかったりする)。

それにしても、これだけの数の競技を同じ主催都市で引き受けるやりかたが持続可能なのか、考えなおすべきだろうと思う。

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第5に、汚職の問題。

最近のニュースによれば、開催都市の決定過程が、贈収賄によって影響された疑いがあるようだ。

もっとも、IOCは政府間機関ではなく、委員や職員は公務員ではないので、収賄罪は成り立たないのかもしれない。それでも、もし、個人(あるいは相対的に個人に近い側の団体)に得になるという動機で、IOCの判断を傾けたとすれば、IOCに対する背任を問われる可能性はあるだろう。

近代オリンピックの初期からかかわっていた国の人々が清廉というわけでは必ずしもないが、文化の共通性が高かったので規範がたもたれていた面はあると思う。世界の多くの国が参加するようになり、そのうちには(残念ながら)公務員の汚職が横行している国もある状況で、組織の規範を共有していくのはむずかしい課題だと思う。

- 5X [2016-06-19追加] -
第6に、ドーピング問題。これの基本は、形式的ルール違反の問題ではなくて、競技成績をあげるために、選手の長期的健康に対して悪い手段を使ってしまいがちだという問題だと思う。そして、それが大がかりになりがちな要因は、上に書いた「第1」「第2」「第3」と共通なものが組み合わさっていると思う。

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わたしのしろうと考えをまとめると、120年をこえた近代オリンピックの制度に無理がきており、いったん休んでオーバーホールするべきであり、もしかすると終わらせたほうがよいかもしれないと思う。

とくに、すべての種類の競技を含めるのが無理なことはすでにわかっているが、すべての国際的に重要な競技を含めようとするのもあきらめて、いくつかの競技群に分散してそれぞれに適した土地で開いたほうがよいと思う。