macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

デマ (2) デマゴーグがいると主張できないときは「流言」としよう

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

- 1 -
「デマ」ということばについては[2013-09-13の記事]で論じた。このことばは、鋭い意味(狭い意味)と鈍い意味(広い意味)で使われるが、話す側と聞く側の使いかたが違うと、無用の敵対感情をもたらしてしまうことがある。

- 2 -
このことばを「事実に反するうわさ」ぐらいの鈍い意味で使うのは、やめたほうがよいと思う。

鋭い意味、つまり、デマゴーグ(扇動者)と呼ばれるのにふさわしい人がいて、その人が意図的に発信している、事実に反するうわさ をさす場合に限って使うべきだと思う。

(その場合でも、「デマ」を発信している人すべてをデマゴーグとみなしているわけではない。発信している人の大部分は、デマゴーグの言うことを事実だと信じて、しかも重大だから多くの人に伝えなければいけないと思っている人々だろう。また、デマゴーグが最初にうわさを作り出すとは限らず、別の(おそらく善意の)人から出てきたうわさを増幅することもあるだろう。)

- 3 -
仮に「事実に反するうわさ」と書いてみたが、必ずしも、そのうわさは偽であり、その否定が真であるという状況とは限らない。いろいろな状況があると思うが、ひとまず理屈で考えてみると、次のような場合が含まれると思う。

  • 実際は偽だが、うわさでは真だとされる場合。
  • 実際は真偽が不確かだが、うわさでは確かな事実だとされる場合。
  • 実際はささいな問題だが、うわさでは重大な問題とされる場合。

- 4 -
「デマ」ということばが鈍い意味でよく使われるのは、たとえば「事実に反するうわさ」では表現が長すぎ、「うわさ」では対象が広すぎるからだと思う。

何か、代わりの表現が必要なのだ。

少し検索してみると、「流言」という表現がある。

川村(2002)は、廣井(2001)による「流言」と「デマ」という用語の使い分けを次のように説明している。

著者は、流言とは「社会に流通する、虚偽の情報ないし誇張された情報」であり、デマが「意図的に仕組まれた情報である」のに対して流言は「人々のあいだから自然発生的に生れた情報が、関心をもつ集団のなかで広がっていく現象」である点でこれと異なるとする。

わたしも、これに合わせるのがよいと思う。つまり、デマゴーグというべき人が発信源(の重要な一部)になっていることを示せない限り、「デマ」と言わずに「流言」と言うのがよいと思う。(わたしはこれまで「流言」ということばを使ってこなかったので、自分も習慣を変える必要があるのだが。)

文献

  • 川村 仁弘, 2002: (書評)「流言とデマの社会学」(廣井 脩 文春新書 文藝春秋)。21世紀社会デザイン研究 (立教大学), 1: 173-175.
  • 廣井 脩, 2001: 流言とデマの社会学 (文春新書)。文藝春秋。[わたしはまだ読んでいない。]