【[2017-07-05補足] 新しい情報を別記事 [2017-07-05 首都大の学部再編成]として書きました。】
【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】
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「首都大学東京」(この名称に関するわたしの不満は[別ページ])が学部構成を変えることが計画されているというニュースが流れた。たとえば、読売新聞2016年5月11日 「首都大7学部に再編、「都市教養学部」を4分割」。都の諮問機関が報告を出したということで、都議会がその案のとおりに議決することが予想されている。国(文部科学省)の認可も必要なはずだが、読売の記者は認可されない可能性は考えていないようだ [注]。
学部構成は、東京都立大学のときのものに近づくことになる。ただし、全面的にもとにもどるわけではない。現在の「都市教養学部」が解体して、「人文学部」「法学部」「経済経営学部」(都立大のときは経済学部)「理学部」がいわば復活するのだが、旧工学部から都市教養学部に移っていた専攻は旧科学技術大がもとになったシステムデザイン学部に加わる。そして「都市環境学部」はそのままなのだ。
【[注] 文部科学省が「法学部」「理学部」のような単純な名まえの学部の新設をもはや認めない、といううわさがあるのだが、読売新聞記事の論調は、それはほんとうでなかったか、過去にはそうだったがもはやそうではないことを意味するのだろうか? あるいは、うわさはほんとうだが、首都大の件は都立大にあったものの復活とみなせるので新設とは別扱いされるのだろうか? 】
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わたしは2000年途中まで都立大学にいたのだが、そこで転出してしまい、それ以後の動きを詳しく追いかけていない。
ウェブ上で情報を集めようとすると、かつての東京都立大学のウェブサイトはなくなっている。都立大の業務は首都大に引き継がれているとはいえ、公開の場に置かれる旧組織の情報は少ない。再編成過程の簡単な年表は次のページにある。
ウェブ検索をすると、石原都政の大学scrap and buildに反対・抗議する立場で作られたページがいくつか見つかる。
- 首大非就任者の会 http://www.kubidai.com/
- 首大ができるまで (年表) http://www.kubidai.com/?Introduction%2FChronology 【[2016-05-15] リンク先URLをはりつけまちがえていたので訂正しました。】
- 首大構想出現以前の流れ (都立大独文学外サイト) http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/2076/calender2.html (ページ自体には表題がないが上記の「年表」ページからの参照に従って示した)
- 都立大の危機 -- やさしいFAQ (岡本 順治) http://tmu.pocus.jp/kiki-a.html
- 都立4大学の改革を巡る経緯について:石原ファシスト都政との戦い (山下 正廣、東北大学職員組合サイト) http://www.tohokudai-kumiai.org/docs05/yamashita.html
(Scrap and buildを推進した立場の人による記述は見つからなかった。検索のキーワード選択がその目的には適切でなかったのかもしれないが。)
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【以下の記述は、2節であげたページのうち年表的なところだけざっと見て、あとは、もう情報の出典がわからなくなっている記憶に基づいて書いている。わたしの記憶違いがあるかもしれない。】
2001年の時点で、東京都立の大学・短大である、東京都立大学、科学技術大学、保健科学大学、短期大学の「4大学」(短大をひとつと数える)を合併する再編成の方針はだいたいかたまっていた。再編成の具体的な形を、当時の都立大学の荻上紘一学長をはじめとする4大学内の人が中心になって考えていた。その案では、学部の構成はだいたい従来のものを維持することになっていた。
ところが、2003年8月に、石原慎太郎知事が全面的scrap and buildをすると言い出した (石原氏の用語ではないがこう表現するのが適当だと思う)。そして、大学内の人を排除して学部構成を決めてしまい、都立大などの教員の移動先を決めた上で、教員各人に、その移動を承諾するか、しない(職がなくなる)かの二者択一をせまったのだった。【[2016-05-15] 2003のところを2013と書きまちがえていたので訂正しました。】
行き先の学部は、都立大からは、理学部の地理、工学部の建築、土木、応用化学の学科は「都市環境学部」、その他の学科は「都市教養学部」だった。科技大はシステムデザイン学部、保健大は健康福祉学部となった。(詳しく言うと違う動きをしたところもある。)
理工系の各学科は、所属学部は変わったが、(また、夜間コース廃止がともなったせいもあって教員定員が減ったが)、だいたいそれぞれのディシプリンの専門家養成ができる構成で生き残った。
しかし文科系については、石原都政は、(旧)法学部の専門教育はlaw school、(旧)経済学部のはbusiness schoolだけにし、(旧)人文学部の分野は教養教育だけをして専門家養成はしない、というような形の体制をつくって、各教員に従うか去るかをせまったらしい。(わたしは断片的な話を聞いただけなので不正確かもしれない。)
経済学部では、知事周辺の人々がマルクス経済学者を追い出したかったといううわさだが、近代経済学者までほとんど抜けてしまい、経営学者だけになりそうなところまで行った。人文学部・法学部でも、多くの教員が抜けたが、とどまって専門教育つぶしに抵抗した人もいたし、外からも都立大学の専門教育をなくすなという応援があったのだと思う。
結局、学部の再編成は強行されたけれども、都市教養学部の教員が担当する大学院の構成は、人文科学研究科、社会科学研究科(法学・政治学・経済学・経営学を含む)、理工学研究科となった。それぞれのディシプリンの専門家養成機能はなんとか維持されたのだった。
もし人文科学・法学・経済学・理学などの専門に分かれた学問をつぶしてでも、「都市教養学」をつくるのがすばらしいことだとしたら、これは「抵抗勢力に負けた」ということになる。しかし、おおかたの認識は、「都市教養学部」は仮の看板にすぎず、旧制高校(の教員)以来のアカデミックなディシプリンをなのるのが本筋だと思っていただろう。それぞれのディシプリンを学ぶ学生を呼びこみたい立場からは、たとえば、心理学なり、生物学なりを勉強したいと思った人に、「都市教養学部」に行こうと思ってもらうのはたいへんで、人文学部や理学部と名のれるほうがよいと思うだろう。
今回出てきた改組案は、仮の看板をはずして実体に合ったものにするだけのことだと思う。石原知事や、石原都政の副知事であった猪瀬知事のもとでは、「都市教養学部をつくったのはまちがいだった」と言いにくかったが、そのしがらみのない舛添知事になったので言えるようになったのかもしれない。