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国立・公立大学の意義 -- いくつかの観点

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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私立大学があっても(むしろそのほうが合計の学生数が多くても)、国や地方自治体が、授業料などによる独立採算でなく、税金からの公費をつぎこんで、大学を運営する意義はあるのか。わたしは、あると思う。

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第1に、多くの人が言っているのが、お金がない (親の収入や財産などが少ない) 人にも大学で教育を受ける機会を保証することだ。

ただし、もし奨学金制度が非常に発達して、お金がないが勉強したい人には、私立大学授業料を払ってさらに学生生活を送れるだけの給付があれば、それでもよいのかもしれない。

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第2に、各地方にいる人が、他の地方に移らなくても勉強したい分野の学問ができる機会をもてるようにするために、いろいろな学問をとりそろえた大学を公的部門が計画的に配置する、ということがあるだろう。

ただし、この観点では、私立大学が立地する地域で、それがカバーする分野については、手薄でもいいことになるだろう。

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第3に、教育というよりも学問の存立という観点。公共の立場では意義が認められるが、私立大学がやる気にならない学問分野は、公的部門でやる必要があるだろう。

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これは国立・公立大学と私立大学の違いから自動的に起こることではないのだが、国立・公立のほうが、学生あたりの教員数が多い (逆に言えば教員あたりの学生数が少ない)ことが多く、その結果、てまをかけた教育を受けられる可能性が高まる。(教員が研究を本務と考えて教育に精力をそそがない場合はそうでないこともあるが。) これは不公平だとして批判されることもある。

【実際、1990年代、東京都立大学にいたとき、このような風当たりを感じた。やや戯画的に強調して言うと、私立大学はいわば東京都の地場産業であり、それと競合する事業を都の予算をつぎこんでやるのはやめるべきだ、という議論があったと思うのだ。】

これに対して、学問の発達には、教育の労力を、全学生に均等に配分するのではなく、少数の選ばれた学生に多く配分する必要があるのだ、という考えもあるかもしれない。

わたしは少し違ったことを考えた。学生あたりの教員数の少ない大学の教員は、教育自体で忙しく、教材や教育方法を開発する時間が不足する。教員数の多い大学では、教材や教育方法をいろいろためしてみることができる。それをみがいて、教員数の少ない大学の教員にも使ってもらえるようなものを提供することを、教員数の多い大学の役割と考えることができるだろう。

【わたしは、1970年代に、国立大学 教育学部 付属 中学校の生徒だった。その学校は、「実験校」と呼ばれることがあるところで、授業には、教科書とはちがった理屈のものがあった。数学では「集合」の考えを使い、「整数」や「実数」の集合が加減乗除のそれぞれの演算について閉じているかを考えさせた。英語では(生徒に対してこの用語を持ち出したわけではないが)「変形文法」の考えを使い、従属節や不定詞句などが、ひとつの文を別の文の中に組みこむ際に変形がされるのだという考えかたで提示された。それぞれの先生が、専門書をかみくだきながら、中学生向けの教材をつくって、試行錯誤していたのだ。その成果のうちには、おそらく数年後の教科書や公立学校での教育方法に反映されたところがあるだろうと思う。】

【そこで、都立大学は、地場産業である私立大学に対して、競合するのではなく、「実験校」として教材や教育方法を提供するのだ、と言えると思ったのだ。】