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メキシコ湾流

気候にとっての海洋の役割の話をする材料として、NHK(1998)のドキュメンタリー「海」のシリーズの「深層海流」の回のビデオを使った。その番組で「メキシコ湾流」という用語が使われていることに気づいた。この番組の科学的内容は海洋学の専門家の監修を受けているのだが、「メキシコ湾流」は海洋学の専門家が使う用語ではない。NHKが別の標準を意識して選択した用語なのだろう。小・中・高校の地理教育で使われる用語との共通性をもたせた用語選択なのかもしれない。ここには、用語というよりも概念のひろがりに関して、注意しておく必要のあることがいくつもある。

【関連して、「西岸」「東岸」という表現にも注意が必要だ。ふつう人は陸上にいるので、「西岸」は陸にとっての西側の海に面したところ、たとえば北アメリカ大陸ならばカリフォルニアなどの海岸をさすだろう。しかし海洋の話題では、海にとっての西側の陸に面したところ、たとえば太平洋ならば日本の太平洋側の海岸をさす。】

海洋の循環は大きく風成循環熱塩循環とに分けられる。風成循環は、海面で風が海に力をおよぼすことによって駆動される。(ただし、必ずしも風がふいた向きに水が動かされるわけではなく、海水の移動による圧力の変化や、地球の自転の効果によって、持続する循環が形成される。) 熱塩循環は、基本的には、海面での大気との間の熱と水のやりとりの結果、海水の密度の不均一ができ、相対的に重い(密度の大きい)水が沈んで軽い水が浮いてくることによって駆動される。(この循環の形成にも風によるかきまぜが必要であることがわかってきたが、直接に風によって駆動されるのとは別のしくみである。) 大まかに言えば、深さ数百メートルを境に、表層の循環は風成循環、深層の循環は熱塩循環である。ただし、熱塩循環の一部は表層を通る。

ビデオ「深層海流」の主題はこの熱塩循環、とくに北大西洋の高緯度(グリーンランド付近)での沈みこみから始まる一連の循環だ。南極大陸周辺を別として、世界の大部分の海洋深層には、ここで沈みこんだ水が広がっている。沈みこみを補う水は、大西洋の表層を北に向かっている。そこでは熱塩循環の一部が風成の表層の海流につけ加わっているのだ。

ビデオには簡単ながら表層の海流の説明もあった。北太平洋黒潮があるのと同様な構造で、北大西洋には「メキシコ湾流」があるとされていた。これは日本の小・中・高校の地理教育で使われている用語と共通だと思う(帝国書院(2005)の地図帳の「世界の気候区と海流」の図(91-92ページ)でもそうなっている)。しかし、海洋学の用語は少し違う(杉ノ原, 1991)。
第1に、海洋学の用語では、英語のGulf Streamに対応するものを日本語で「湾流」とは言うが「メキシコ湾流」とは言わないのがふつうだ。(「理科年表 2014」の「世界の海流図」(地46-47ページ)の凡例では「メキシコ湾流」としているが、この用語選択が海洋学の立場か地理学の立場かは未確認。)
第2に、海洋学の用語では、北太平洋で日本列島のすぐ南を北東に流れる「黒潮 (英語でもKuroshio)」と、日本列島から離れて太平洋を東に流れる「黒潮続流 (Kuroshio Extension)」を区別する。北大西洋では北アメリカ大陸(の陸の立場で言う東海岸)に沿って北東に流れる「フロリダ海流 (Florida Current)」と、大陸から離れて大西洋を東に流れる「湾流 (Gulf Stream)」を区別する。黒潮と湾流はどちらも北半球の亜熱帯循環の一部だが、その構造のうちでぴったり同じ部分ではないのだ。
海洋学の用語は、海洋学の観点から適切な対象を区切って認識すること、国際的に統一(言語間の翻訳を一対一対応)すること、現地での呼びかたとなるべく合うようにすること、などの目標の間のバランスをとって決められているのだと思う。一方で、それは尊重されるべきだが、他方で、海洋学の観点からの対象の区切りが、地理学あるいは報道の立場から見ると細かすぎることもあるだろう。わたしは、NHKが、海洋学者のいう「フロリダ海流」と「湾流」をあわせて「メキシコ湾流」と表現することは妥当だと思うし、自分が気候の話をするときもそうするかもしれない。

ところが、このビデオの主題でありわたしが授業で伝えたかった件は、熱塩循環の一部である、北大西洋北部で沈みこんで南下する深層水の「帰り」なのだ。表層に現われた海流について言えば、北太平洋では黒潮続流がすなおに東に流れるのに対して、北大西洋の湾流の続きはさらに北上する。
この北上している部分は、海洋学用語では「北大西洋海流 (North Atlantic Current)」と言って「湾流」とは区別されている。帝国書院(2005)の地図帳の図でも「北大西洋海流」と書かれている。ただし、日本の専門的でない記述では多くの場合「メキシコ湾流」といっしょにしていることが多いと思う。これは日本に限ったことではなく、Goreの講演を伝えた「不都合な真実」日本語ふきかえでも「メキシコ湾流」という用語が使われていた。英語の用語を確認していないがGulf Streamだったにちがいない。

ヨーロッパが緯度のわりに暖かいことの原因として海の役割が持ち出される。妥当な議論もそうでないものもあるのだが、太平洋の東岸である北アメリカ(カナダ)西海岸との比較で暖かいことの説明ならば、北大西洋海流があって低緯度側から温度の高い水を運んでいること、そしてその一部に深層循環の「帰り」が含まれていることをあげるのは妥当だろう。そこで持ち出される海流の固有名としては、学術的には「北大西洋海流」がよいのだが、日常の文脈では、この用語は単に北大西洋にある海流と読めるのでわかりにくく、また対象のまとめかたを専門の観点よりも大まかにしたいので、Gulf Streamあるいは「メキシコ湾流」にまとめてしまうことも無理もないような気がする。しかし必要に応じてここで述べたような事情を確認できることも必要だ。

文献(ビデオを含む)