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森林を育てるには「植林」を奨励しないほうがよいのかもしれない

2012年11月16日に「宮脇昭氏の「森の防波堤」論をめぐる暫定的考え」を書いてから追いかけていなかったのだが、最近Twitter上で話題になっているのを見た。
Togetterで次のようにまとめられている。

その内容をわたしなりに述べなおしてみる。宮城県津波被災地の海岸で、植林した木が育っていないところが多い。このうち林野庁都道府県がとりしきるところも困難はあるが、施肥や客土などで解決しそうだということだ。とくにうまくいっていないのは、国土交通省がとりしきっている「緑の防波堤」で、コンクリートや「がれき」の上にのせられた土の層が浅すぎるうえに、宮脇氏の方法を信奉する人が選んだ「潜在自然植生」の樹種が潮風に耐えなかった。(「潮風」という表現には、かなり強い風が長時間吹くことと、それによって運ばれた塩分が植物表面に残留することが含まれるのだろうと思う。) その「潜在自然植生」は気候条件に対応するもので潮風の条件まで考慮されていなかったらしい。もし「潜在自然植生」の森林が成り立つとしても裸地から直接ではなくまず先駆的な種の森林ができたあと徐々に入れかわっていくのがふつうだ。「防波堤」の条件で木を植えるならば、潮風に強いことで定評のあるクロマツか、先駆的樹種で塩分にも耐えられるヤナギなどがよいと考えられる。

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その前の2013年11月2日に、北海道の植林に関する話題があり、次のまとめがある。

それによれば、北海道の多くのところでは、草などをとりのぞいて意図的に裸地にすれば、風散布の種子が落ちてヤナギ類とハンノキ類の森林ができる。特定の種類の木の苗を植えて育てようとすると、風散布の種子から育った木をとりのぞくことを含むてまがかかる。木を資源とするために特定樹種が必要なら別だが、環境機能が目的ならば風散布の先駆的な樹種の森林を早く成立させたほうがよく、苗を植えるのはむだである。

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この例を受けて考えてみると、「植林」ということばが、直接的に木の苗を植えることと、森林が成立するのを助けることの両方の意味で使われていることに思いあたる。環境保全のために植林をするとすれば、そのねらいは後者のはずなのだ。しかし「植林」という用語を使うと、前者をしなくてはいけないような気がしてしまう。奨励すべきなのは「植林」ではなく、(表現はよく考えたほうがよいが、たとえば)「森林育成」なのだろう。

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宮脇氏がこれまで提唱してきた植林活動では、「潜在自然植生」の樹種の苗を植え、あとはあまりてまをかけずに森林が成立する。この場合、森林を育てるための主要なてまは苗を植えることなので、「森林育成」を「植林」と言ってしまいたくなる。しかし、この方法が成功する条件は「潜在自然植生」の苗にとってめぐまれた環境に限られていたのだろう。海岸の埋立地の工場敷地で成功した例もあるが、今回の「防波堤」ほどは潮風の影響が強くなかったのだろう。このような方法が成り立つ場所もある(それ自体はよいことだ)。しかし、どこでもこのような方法が成り立つ条件にめぐまれているわけではないのだ。この条件がそろっていない場合は、森林育成を「植林」と呼ばないほうがよいのだろう。

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森林を育てることは、大気中の二酸化炭素の増加をくいとめる対策のひとつとしても考えられている(現在の化石燃料使用による排出量を打ち消せるほど大きな効果のあるものではないが)。これを英語でafforestationというので、これまでわたしは日本語では「植林」と表現してきたのだが、これからは「森林育成」と言うことにしたい。反対概念であるdeforestationに対応する日本語が「森林破壊」で落ち着いているのとの対応もこのほうがよいと思う。

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つい用語の話になってしまった。実地で木や土とかかわって働くことに比べれば用語はささいな問題だろう。しかし、社会にとって重要な目標を代表する用語については、本来の目標と違ったものを追求してしまわないように注意が必要だと思うのだ。

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これまである樹種が育っていた場所の環境がその樹種に適さなくなるような環境変化のある場合、自然保護・自然再生は何をめざしたらよいのか、という問題にも思いいたったが、簡単に述べられることでないので、別の機会にする。