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「地球温暖化問題と科学コミュニケーション」シンポジウムの感想

2013年9月27日(金)の晩に札幌で開かれた、北海道大学CoSTEPと科学技術社会論学会の共催によるシンポジウム「地球温暖化問題と科学コミュニケーション --哲学者・科学者・社会学者が闘論--」に参加した。シンポジウムのウェブサイトは開催後移動して、現在はhttp://costep.hucc.hokudai.ac.jp/sympo/ にある。

シンポジウム本体は、3人の講演者と司会者をあわせた4人の間の問答で、ただしなるべく事前に用意されたプレゼンテーション資料を白い壁に投影して見せながら進められた。会場の出席者は、ボタンを押して通信する道具を渡されて、講演者または司会者からの問いに対して選択肢番号を答える機会はあったが、質問や意見を述べる機会はなかった。時間が限られる中で講演者間の議論をかみあわせることが優先されていた。

シンポジウム本体のあと30分ほど、出席者たちがそれぞれ自由に話しあう場がもうけられた。ここで講演者をつかまえて議論することができた人にとっては有益だったと思う。また、顔見知りではあるがふだんは出会わない人どうしで意見を交換できた人にとってもよかっただろうと思う。この日はシンポジウムの前に科学技術社会論(STS)学会の理事会の日程が組まれたのでそのメンバーを含めてSTS研究者どうしの会話はあったし、運営を担当された北大CoSTEPの現役の人々のまわりに元関係者が集まっていたようだった。しかし、講演者に近寄れず知り合いもいなかった人にとっては、この時間にだれとどんな話ができるかは偶然しだいになってしまったと思う。参加者各人の関心を他の参加者に知らせることができたらよかった、と思ったが、方法についてわたしにはよい考えがない。

なお、講演者の江守正多さんとわたしのほかに、わたしの知っている地球環境の科学の研究者は見あたらなかった。これは必ずしも科学者がいなかったということではなく、わたしの顔見知りが限られているのだと思うが、少なかったとは言えると思う。この点はちょっと残念であり、自然科学や経済学などを背景とする人との議論の場を別につくる必要があるかもしれないと思った。

シンポジウムはよく準備されていて、あらかじめ、主催者からおよび講演者間でされた質問への答えを含めて講演材料が用意されていた。基本的に、IPCC報告書の著者にもなった気候科学者の江守さんと、市民参加型手法の国際的試みであるWorld Wide Viewsの日本での実行にかかわった三上直之さんに、哲学者の松王政浩さんが質問するという構造だった。その話題は、地球環境問題にかかわる政策決定に向けて、科学者と市民のそれぞれの役割や参画するしくみを考えることに向かっていたと思う。

ただし、江守さんの発言を聞いていれば誤解はなかったと思うが、江守さんは、科学者の典型例ではない。STS学会にはまだ入会していないそうだが、STS的問題意識をもっている。最近の著書「異常気象と人類の選択[読書メモ]でいえば前半は科学者による温暖化の解説だが、後半は温暖化問題をどう考えるかについてのSTS的考察なのだ。本の第3章に出てくる「2℃のフレームと経済価値のフレーム」の話は、どちらかというと社会が温暖化問題をどうとらえるかという文脈で提示されているが、この日の講演では、IPCCにかかわる科学者のうちにもこの両者がいるのだということがまず述べられた。科学者集団として政策決定への助言を述べようとするならば、まず科学者間の共通のフレームが必要になる。そこで江守さんは「温暖化のリスクと温暖化対策のリスクの間の選択」というフレームのもとでの共同研究を推進しているわけだ。

このリスク間の選択という考えかたは、詳しく見ると違うかもしれないが大筋では、温暖化問題にかかわる経済学者の多くが十年以上前から使ってきたものだと思う。(ただし、温暖化問題にかかわる科学者の多数にも、世の経済学者の多数にも、広まっていなかったかもしれない。) 彼らがよく使う方法は費用便益分析というもので、それを使った政策選択は、(わたしのおおざっぱな理解によって述べれば) さまざまなリスクをひとつの定量的な軸(多くの場合は金額)にのせて合計し、合計のリスクが小さい政策がよいと判断するものだ。

シンポジウム中に(事前に作られた「ガイドブック」でも)松王さんから話題に出された「Stern Review」も、広い意味の費用便益分析による仕事だ。ただし「割引率」という数値を従来の経済学者の常識よりもだいぶ小さくとった。これはStern氏の意識的選択であり、世代間倫理を重視するという価値判断を反映している。

【ここで割引率を小さくするのは、将来世代の損失を現在世代の損失とほぼ同じ重みで扱うことを意味するのだが、その根拠が「功利主義」(utilitarianism)であると説明された。これはBroome (2008)による説明で、ここでは現在の1人の得失と将来の1人の得失を同じ重みで扱うことをさし、哲学者の松王さんから見て正しい用語づかいらしいが、わたしには必ずしも納得がいかなかった。また、割引率を大きくする態度の根拠は「優先主義(prioritarianism)」であり、世界は時とともに豊かになるだろうという見通しを前提として、相対的に貧しい現在の世代の利得をふやしたほうが全体の幸福が大きいと考えるものだとされる。Broomeの議論はそうなっているし、ほかにもそういう議論を読んだことがあるが、わたしは、将来のほうが豊かだという前提は(とくに地球規模環境変化が進行するもとでは)あてにならないし、現在の人がそれを仮定するのは身勝手だと思う。割引率を年5%ぐらいにとるのは現代の経済活動の慣習であって理屈ではないのだと思う。わたしが理解できる割引率の理屈づけは「現在の意志決定の影響が時間とともに他の要因によって薄まるだろうから、遠い将来のことをあまり心配してもかいがない。」というものだ。】

ここから講演者の議論を離れてわたしの考えを述べるが、倫理的価値判断は専門家の業務ではなく個人の行ないだと思う。しかし、その価値判断を経済学という科学の中にある割引率という変数に適用するには、経済学の専門知識を必要とする。専門知識をもつ個人が社会の問題にかかわるとき、個人としての立場と専門家としての立場の境を横断することがあり、そういう行動をとる人が、もしかすると社会にとって必要なのかもしれない。

世代間倫理を重視する人のうちには、たとえ割引率をゼロに近くしても、費用便益分析は政策選択のよい指針をもたらさないと考える人もいる。人の命にかかわることはお金の損失といっしょにしてはいけない、という理念からそう考える人もいるだろう。わたしはそれとは別の、ふだん物理量を扱っている立場から、金額という数量は、たとえ物価指数の補正をするとしても、50年や100年にわたる政策を評価するのに使えるほどの確かさをもたないだろう、という感覚をもっていて、金額で示された長期評価にはあまり動かされない。ただし、現代の政策にかかわっている人を説得するためには彼らが関心をもつ指標の数量を示すことは必要なのだろう、とも思っている。

世代間倫理を政策決定の権利の側から考えてみると、今の世代の人の行動(たとえば化石燃料消費)によって次の世代の選択の幅を狭めることはなるべく避けるべきだ、ということになると思う。ところが、Sternが使ったような長期最適化の枠組みで考えると、今の時点で今後百年間の政策を評価して最適なものを選ぶことになるので、次の世代の人は選択の余地がないような形になる。ただし、これはこの研究手法の形式的特徴にすぎず、この手法で政策評価をすることが将来世代の決定権を軽視する思想を含んでいるということにはならないと思う。なお、経済学的評価手法には長期最適化でないものもある。

松王さんと江守さんの両方のプレゼンテーション資料中に「予防原則」の話題が用意されていたのだが、時間の関係で省略されてしまった。ただしこれは短時間で話すのはむずかしい問題だと思う。もし心配すべき危険な事態が1種類であれば、それに対する備えを最優先にする態度はある意味で合理的なのだが、現実の社会の意志決定で必要なのはむしろ多数の要因が予想困難な形で複合した事態への備えだろう。「予防」の意味を拡張しないといけないと思う。

World Wide Viewsは、2009年の地球温暖化に関するものに続いて、2012年には生物多様性条約に関するものが行なわれた。これは生物多様性条約締約国会議の公式文書でも言及されたそうだ。このように認められてきたのはよいことだと思うが、この先、世界の多くの場所で同時に議論する行事型よりも、いつでも知識提供者や議論の相手を見つけることができるような常設型に変わっていく必要があるのではないかと思う。生物多様性・生態系サービスの問題のうちでも、また気候変化やその対策と複合した課題でも、リスクの間の選択を扱わなければならず、1日ぐらいでは話しきれないことが多くなると思うからだ。

文献

  • John Broome, 2008: The ethics of climate change. Scientific American, 298(6): 96-102.