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子ども/子供

「日本教育新聞」2013年7月15日号に
「子ども」表記を「子供」に -- 下村文科相 公用文の統一指示
という報道記事が出ていたことを7月24日に知った。下村文部科学大臣が、「子ども」という単語の文字表記を「子供」とするように文部科学省内に指示したのだそうだ。

これに対して、「『供』の字は『おとも』あるいは『そなえもの』を意味するので、『子供』という表記は子どもを人として人権を尊重することに反する」と、どうやら本気で考えて怒っている発言が見られた。複数あったと思うが仮にA氏で代表させておく。これにはわたしは賛成しない。A氏は、自民党政権あるいはそのうちでも復古的教育観で知られる下村氏の打ち出す政策にはいちいち保守反動のイデオロギーを読み取ってしまう人なのだろう。また、漢字はまさに「表意文字」だという文字観をもつ人なのだろう。(近ごろの言語学者の書いたものでは、漢字はいわば「表語文字」だとされることが多い。)

逆に、「子ども」という表記が正しいという主張自体が左翼のイデオロギーにとらわれているという意見も見かけた。これにもわたしは賛成しない。さきほどのA氏についてならば、わたしも、左翼のイデオロギーにとらわれていると言うかもしれない。また、第2次大戦後の漢字の利用を制限する傾向のある文字政策は、ほとんど保守系(1955年以後は自民党)の内閣のもとで実施されたにもかかわらず、国民がもつべき標準の読み書き能力へのアクセスの平等化が望ましいという、ある意味で左翼的といえる思想に基づいており、「子ども」という表記が広く見られるようになったのはその結果だとは言えそうだ。それにしても、それが標準として働いていた時期には、標準の基礎となった思想など意識せず、習って大きな不満がなかったからそのまま自分の習慣にしてしまった人が多いと思う。

さかのぼれば、日本語の文字づかいには統一された規範がないのが伝統だった。明治時代に、かなづかいについては歴史的かなづかいが規範とされ、漢語の漢字づかいは中国の古典に従うという規範があったとも言えるが、やまとことばの漢字づかいについては規範がなく複数の書きかたが並列に使われていた。第2次大戦後になって、当用漢字表(1947年)などの規範が制定された。1970年代ごろから制限への不満がよく聞かれるようになり、常用漢字表(1981年)などの規範改訂の際には複数の形を許容するように変わってきた。

国の公式見解ではないが、国の機関(現在は独立行政法人国立大学共同利用機関)である国立国語研究所のウェブサイトの「よくある『ことば』の質問」→ 「文字・表記」→「『こども』の表記」というページ (http://www.ninjal.ac.jp/QandA/notation/kodomonohyoki/ )には、山田貞雄氏の署名と2012.11.1の日付のある文章があり、

実は「子供」でも「子ども」でも「こども」(因みに,国民の祝日は「こどもの日」と書きます。)でもよいのです。

という記述を含んでいる。今の規範は多様性を認めているのだと思う。

ただし、役所として組織内の文字づかいを統一したいのはわかる。(ただし、文書のうちには長期保存されるものもあるので、前の時期に主に使われていたものと違うものに統一したのでは、同時期の統一がかえって時期を越えた統一性を下げる場合もあるのだが。)

統一するとすれば、現行の国の行政の規範は、2010年に「常用漢字表」が告示された際「別紙」として収録された「公用文における漢字使用等について」だろう。それには次のように書かれている。(ここにあげた件に関する限り1981=昭和56年のものも同様だと思うが、わたしはまだ確かめていない。)

http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/kokujikunrei_h221130.html
公用文における漢字使用等について
1 漢字使用について
(1) 公用文における漢字使用は,「常用漢字表」(平成22年内閣告示第2号)の本表及び付表(表の見方及び使い方を含む。)によるものとする。

そして「常用漢字表」本表の漢字「供」のところを見ると、読みとしては

キョウ: 供給,提供,自供
ク: 供物,供養
そなえる: 供える,お供え
とも: 供,子供

がある。「子供」という文字列自体が例にあげられているのだから、行政の現場の規範がこれに従うにはそれなりに筋はとおっている。

しかし、この「公用文における漢字使用等について」には次の記述もある。

1 漢字使用について
...
(2) 「常用漢字表」の本表に掲げる音訓によって語を書き表すに当たっては,次の事項に留意する。
...
エ 次のような接尾語は,原則として,仮名で書く。
例 げ(惜しげもなく) ども(私ども) ぶる(偉ぶる)み(弱み) め(少なめ)

「こども」の「ども」が接尾語だとすれば、これは「子ども」という表記の根拠になりうる。

「当用漢字」の時代には、「当用漢字音訓表」(1948年)に「供」の字に「とも」という訓が示されていた。しかし読みに対する例となる語は示されていなかった(それを示す欄が表になかった)と思う(今のところ未確認だが)。そして、接尾語はかなで書くという指針はあったと思う。「子ども」の「ども」は、すでに熟語の一部となっていて、接尾語に関する規則を適応する対象ではないと考えられるかもしれない。それにしても、(古典漢語に根拠をおく)「供」という漢字の意味と積極的つながりがないので、当用漢字時代の規範の原則によれば、かな書きがよいとされると思う。

(なお、「こども」の「ども」と「供」とは意味が重ならないが、「共」なら重なるのではないか、という人もいる。それを採用すれば「子共」という表記が考えられるが、これまで見慣れない表記を普及させるにはそうとうの勢いが必要だろう。)

「子ども」よりも「子供」のほうがよいという主張のうちには、「まぜ書き反対」の理屈に基づくものもあった。日本語の表記には単語わかち書きする習慣がない。単語がまとめて目にはいりやすいような一定の形をしているのがよいというのはもっともなところがある。

語に漢字を使うならば、語のはじめの字は漢字のほうがよいというのは、もっともなところがある。(ただし、漢字の代わりにかたかなを使うという手はある。「ケイ素」「フッ素」など。) 動詞・形容詞の活用語尾などは「送りがな」としてひらがなで書かれるので、単語のうしろのほうが かな になることはめずらしくない。名詞の場合も「子ども」のような漢字かなまじりで、とくに読みにくくはならないと思う。([2019-10-26 補足] 実際に使われる表記ではなく作った例だが、「こ供」のような、はじめの字が漢字でないまとまりは、たしかに、わかちがきなしの日本語文中で語として読みとりにくい。)