2013年7月25日、下村文部科学大臣の発言をきっかけに、「人間力」ということばが話題になった。わたしが27日ごろまでにTwitter上のいろいろな発言を見て考えたことをまとめておく。Twitter上の発言者のお名前はひとまず出さない形にしておく。
「人間力」ということばは(定着した)日本語にないという前提で、冗談として、しかし理屈を持って、その意味を考えた発言がいくつかあった。
- 「『馬力』と同様なエネルギーの単位」。正確には仕事率(つまり単位時間あたりのエネルギー)の単位である(と指摘されていた)。
- 「人と人との間に働く力であり、引力と斥力がある。読みは『じんかんりょく』」。「分子間力」からの連想にちがいない。
冗談ではなく今の話題に対応可能な「人間力」の定義として、次のページの存在が指摘された。
鳥取大学
人間力の考え方
http://www.tottori-u.ac.jp/dd.aspx?menuid=2382
本学では、「人間力」を、「知力」、「実践力」、「気力」、「体力」及び「コミュニケーション力」の5つの構成要素から成り立つ総合的かつ人格的能力として定義する。
[そして構成要素それぞれの定義が続くのだが、引用は省略する。]
これを紹介してくださった人は、「定義としてはいろいろな批判があるだろうが、ともかくここまで具体化したことはすごい」という趣旨の論評をしていた。
この「人間力の考え方」は「鳥取大学教育グランドデザイン」の一部とされている。その文書が作成された年は見あたらなかった。別のページを見ると、鳥取大学の現行の平成22-25年度の「中期目標」の文書には「人間力」ということばがあるがその前の平成16-21年度のものには見あたらない。したがって、おそらく平成16-21つまり2004-2009年度の間に「人間力」についての議論がされたのだろう。
文部科学省は「人間力戦略ビジョン」において、「新しい時代を切り拓くたくましい日本人の育成」のための指導理念として「人間力」を位置づけている(文部科学広報25号、平成14年9月30日)
「人間力」は10年以上前から文部科学省の政策で使われていた用語だったのだ。【「文部科学広報」は平成22年度以後のぶんはオンラインにあるが古いものはないらしく、まだ原文を確認していないのだが。】
ただし、鳥取大学は「人間力」を入学した学生への教育目標としている。目標がかなえば、卒業する学生はみな「人間力」をそなえていることになり、そのうちでの優劣をつける必要はないだろう。
今回の大臣の発言で問題なのは「人間力」を持ち出したこと自体ではなく、それを入学試験の判定基準で使えというところだ。そうなると、受験者の間の「人間力」の相対評価をしなければならなくなる。そして、不合格になった人について「人間として価値がない」かのような印象を与えてしまう(ということを指摘した人もいた)。
ロボットが受ける試験ならば人間力を問うのもよい、という冗談半分の発言もあった。
もう少しややこしい話で、「『人間力』を問う試験をすれば教育におかねをかけられる社会階層の人が有利になるので、社会階層の固定化につながる」という批判もあったと思う。そういう主張には「貧しい人の教育の機会を均等に近づけるには、学力試験の一発勝負のほうがよいのだ」という主張が伴うことが多い。この前段はもっともだと思うが、そこから後段の主張につないでよいかはわたしはよくわからない。