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気候モデリング研究者の(複数の)思考様式 (Shackley 2001)

[6月26日の記事]で紹介したNorton and Suppeの論文がのっているMiller and Edwards (2001)の本の別の章。Norton・Suppe両氏は哲学者だが、Shackley氏は社会学者で、科学社会学あるいは知識社会学に分類されると思う。他の著作を検索してみると、地球環境問題の政策決定に至るいろいろな立場の人々のかかわりかたを研究しているようで、気候モデリング研究者はそのひとつのグループだが、この論文ではそのグループの内側でも思考様式は一様ではないことを論じている。【Epistemic lifestyleという用語を使っているが、(わたしは読み終えていない) Fleck (1935) の本[読書メモ]の議論の流れをくむものらしいので「思考様式」としておく。】

まず1993-95年のアメリカの2人の研究者の間の議論がとりあげられる。本文中では匿名になっているが、謝辞とつきあわせると、Scientist Cが真鍋淑郎さん(当時NOAA Geophysical Fluid Dynamics Laboratory)、Scientist BがMichael MacCrackenさん(当時U.S. Global Change Research Programのexecutive director、日本に対応するものはないが無理に訳せば国の地球環境変化研究推進本部長といったところか)にちがいない。

【1990年代以後の真鍋さんは大循環モデルのうちでの単純なモデルの推進者だった。そのことを知るのがわたしはまわりの人よりも遅れた。1960-70年代の真鍋さんの仕事(わたしは1980年代に知ったのだが)が、当時の世界でいちばん複雑な気候モデルを動かすことだった、という印象が強かったからだった。わたしが追いかけていなかった1990年代の間に、他の機関の研究者はモデルの複雑化に向かったが、真鍋さんはモデルを複雑にしないでシミュレーション対象時間をのばすことに向かったのだった。】

1993年当時、アメリカ合衆国は地球環境に関する研究を政策的に推進しようとしていた。そこでは必ずしも研究者がやりたいことではなく、政策決定に役立つ知見を得る研究が求められる。気候モデリングも国として計画的にやるべきだとMacCracken氏は考えた。彼が望ましいとしたのはいわば複雑なモデルだった。そこで意見を求められたメンバーだった真鍋さんが反対意見を述べたわけだ。

現実の地球の大気や海洋はとても複雑だ。計算機で扱えるのはどうしてもそれを単純化した近似になる。しかし、MacCracken氏に代表される人々は、それをできるだけ詳しく扱ったほうがよいと考える。現実世界のプロセスの存在がわかっているならそれをなんとかモデル化してとりこむべきだ。また空間・時間分解能も計算機能力の許す限り細かくするべきだ。それに対して真鍋さんは、複雑なパラメタリゼーションを作ってもそのパラメータ値を充分に較正・検証できる観測値がないのではむだだ、それよりも単純なモデルのほうが、計算時間も節約になるし、解釈もしやすいと主張する。

【複雑さの増加といっても、空間分解能を細かくすることによる同質の変数の個数の増加と、プロセスをふやすことによる異質の変数の個数の増加を区別したほうがよいと思う。とくに、空間分解能を細かくすることによって、雲の中の空気の運動を力学で表現することができれば、雲のパラメタリゼーションの理屈は単純化できる可能性があるのだ。しかしわたしがこれを言えるのは2001年以後のモデリングの動きを知っているからであって、1993年のMacCracken氏やShackley氏がどちらも同様に複雑化とみなしたのも無理もないと思う。】

これは個々の研究者の態度にとどまらず、国としての研究推進の方法にもかかわることだ。McCracken氏は集中投資のメリットを述べ、真鍋さんは多様性のメリットを述べる。その背景として、MacCracken氏のような人は最高性能のモデルを作れば考えられるすべての問題に適用できるだろうと考えるようだが、真鍋さんのような人は目的ごとに最適なモデルは違ってくると考えている。

ここでShackley氏はこの対立を一般化して「気候観察者 (climate seers)」と「モデル構築者 (model constructors)」の対立ととらえている。気象学者の中の「観測屋・データ解析屋」と「モデル屋」の対立ではなく、その「モデル屋」の中の細分なのだ。「気候観察者」にとってモデルは手段であり、それを使ったシミュレーションの中のモデル大気・海洋のふるまいを見ることによって、現実の気候に関する知見を得ることが目的だ。他方「モデル構築者」にとっては、現実の気候のプロセスに関してこれまでに得られている知見をモデルの中に結集することが目的のように認識されている。そして、Shackley氏によれば(いずれも1990年代なかばの時点で)、GFDLのチームはほとんど気候観察者だという。【1970年代ごろはモデル構築に力を入れていたはずだが、その担当者の多くは気象学の修士修了者なので、気候観察者のセンスを持っていたとは言えるかもしれない。】NCARはモデル開発チームはモデル構築者、それを使う研究者は気候観察者で、別々の集団をなしているという。イギリスのHadley Centreは両方のタイプの人々がいっしょに働いているという。この分析がよいかどうかはよくわからない。むしろ、モデル開発者とそれを利用する研究者の分業があるか、人事交流があるか、それぞれの職にどんな教育を受けた人がつくか、などのほうが重要だろうと思う。Hadley Centreについて、イギリス気象庁の天気予報の職場との兼任者や人事交流があることには著者も注目している。

モデリング研究者のうちの「気候観察者」のうちの細分として、熱力学重視と力学重視がある。わたしが[6月27日の記事]へのコメントで書いた、気候モデルを全球エネルギー収支モデルから発達したものと見るか数値天気予報モデルから発達したものと見るかの対立と同じことだろう。熱力学重視の人は(数学的でない)物理的直感重視、力学重視の人は数学重視である傾向もある。また(本書が書かれた時点でのことだが)気候モデリング研究者は熱力学重視が多く、それを批評する人は天気予報の職場や大学にいる力学重視の人が多い。【熱力学的に気候を見ている数学・数理物理学的思考の人もいるのだが、そういう人が大循環モデルの仕事をすることは少ないようだ。】

研究者の職場の小社会に対する観察として、Hadley Centreは秩序立った組織になっているが、アメリカの研究機関は群雄割拠的だと言っている。これには外の一般社会の文化的要因もあるかもしれないが、重要な要因として研究資金提供体制の違いがある。アメリカ合衆国では、予算の趣旨は違うのだろうが、大循環モデルの開発を含む研究の予算が、NOAA, NSF, NASA, DoEによってそれぞれ別の研究機関につけられている。イギリスでは全体の規模が小さいのでHadley Centreに集中するという決断がされた。【ただしヨーロッパのスケールでの多様性はあると思う。2001年の時点ではまだ国境を越えた役割分担は少なかったかもしれないが。】

また、研究者が研究課題を設定する際に政策決定上の重要性がどれだけ意識されるかも職場や個人によって違いがある。よく意識している例として、Hadley Centre、MacCracken氏、それにGISSのHansen氏があげられている。他方、NCARモデルを共同利用する大学の研究者や、真鍋氏の仕事は、学問的意義に基づく課題設定が多い。(より深く理解できたほうが政策の参考としての価値も高まるのだという考えもあると思う。) 【なお、この対立軸とモデルの単純さの軸とは一致しない。1990年代のHansen氏のチームの仕事の特徴は、社会の関心にこたえられる設定の実験結果を速く出すことであり、それは空間分解能をあまり高くしないことで可能になっている。】

著者がいちばん重視しているらしい「気候観察者」と「モデル構築者」の対立軸の意義には疑問があるが、そのほか複数の切り口が示されたことは参考になった。

文献

  • Simon Shackley, 2001: Epistemic lifestyles in climate change modeling. In: Changing the Atmosphere: Expert Knowledge and Environmental Governance (C.A. Miller and P.N. Edwards eds., MIT Press), 107 - 133.