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「ニセ科学」と仮称される問題群の論点整理の試み

ニセ科学」と呼ばれることがある問題は確かにあると思う。ただしわたしはこの用語には必ずしも納得していない。「ニセ科学」は、「(おもに、科学に深くかかわったことのない人から見て)科学(的)に見えるが、実は科学(的)でないもの」をさすと言える。

それならば「疑似科学」のほうがよいという考えもある。しかし「疑似科学」という表現はSFの設定などをさすと思う人もいる。SFの一見科学的な内容は、その本がSFと分類されることによって、読者に、それが科学でないかもしれないという情報が伝わる。「ニセ科学」として問題になるのは、それが疑似科学であるという信号を含まずに伝達される疑似科学的知識だ。発信者が「ニセ」であることを承知で詐欺的にふるまっている場合と、発信者はそれが正しい科学だと信じこんでいる場合の両方を含む。

ニセ科学」という用語は、その活動をやめさせたいという価値判断を含んでいることが多い。個人が科学的に正しくないことを自分の信念としてもつだけならば、それを見た科学者が単発的に「ニセ科学」と表現することはあるかもしれないが、ニセ科学批判活動の対象にすることはないだろう。

どういう活動をやめさせたいかには、次のような場合がある。

  • (a) 科学教育で、生徒たちに科学に対するまちがった認識を与える場合。
  • (b) (家族を含む他人の)健康に害をもたらす場合 (栄養が偏る、標準的医療を受ける機会を奪うなど)。
  • (c) 環境(地域の生態系など)に害をもたらす場合。
  • (d) 自治体や国の行政を動かし、公金のむだづかいを招く場合。
  • (e) 消費者が効果を誤認することによる経済的被害が大きい場合。

「科学(的)でない」という表現の意味は、必ずしもいつも同じではないようだ。分類を試みると、次のようなものがある。

(1) 初等科学的まちがい
現代科学の初等的部分を否定しながら、何かの技術に科学的裏づけがあるかのように提唱する。「初等的部分」の例としては、物理学の基本法則である、質量保存、エネルギー保存(熱力学第1法則)、エントロピー増大(熱力学第2法則)などがある。また生物(ウィルスなどを除く)の遺伝子がDNAであることもこれに含めてよいだろう。科学の発展によって、初等的部分の定式化が変わることはある。たとえば、アインシュタイン相対性理論以後、質量保存とエネルギー保存は別々には成り立たないことがわかった。しかし、日常に近い問題では質量保存とエネルギー保存とはそれぞれ法則とみなしてよい。これに限らず、科学が進展しても、日常に近い問題で何が不可能かに関する判断が大きく変わる可能性はきわめて低い。ところが、中途半端に科学の知識がある人が、科学には無限の可能性があるものだという考えから、初等的部分を否定する説に染まることがたびたびあるようだ。

(2) 科学理論もどき
科学理論に使われる概念をよく理解しないで、その用語の直感的意味づけによって組み立てられた議論。Sokal and Bricmontの、日本語で「知の欺瞞」、英語で「Fashionable Nonsense」と題された本は学者がそれをやってしまった事例集だ。

(3) 特定仮説に対する自信過剰
現代の科学者たちの認識を総合すると因果関係には多様な可能性があってしぼりきれない状況で、因果関係に関する仮説を仮説として述べるのは科学的に正当な活動だ。しかし特定の仮説を確立した理論あるいは事実であるかのように述べるのは科学的に正当でない。(これは「疑似科学」とは言いにくい。仮説であるとの認識はあるがひいきしすぎる場合は「病的科学」に含めるのが適切だと思う。)

(4) 仮説を裏づける方法論が科学的に正当でない
たとえば、対照実験が可能なのにしていない、など。(専門科学者の方法論に関する理解不足の場合も、意図的に否定している場合も含む。)

以上の特徴は、すべてではないが、複数が複合して起きていることが多い。共通の背景として、科学的知識には確かな部分と不確かな部分があることへの理解不足、科学者が主張の不確かさを減らすためにはらっている努力への理解不足があると思う。

事例としてのEM
複合している例として、比嘉照夫氏が提唱するEM (有用微生物群)がある。

「有機物を分解する微生物(群)が存在し、堆肥づくりはそのような微生物の働きに頼っている」というのは、初等的科学の正しい知見だ。したがって普通名詞としての「有用微生物群」の重要性の指摘は科学的に正しい。

そして、比嘉ブランドのEMがその一例であり、なまごみ処理、堆肥づくり、農業向けの土壌状態改良に役立つとする限りでは正当だと思う。ただし、信奉者以外の科学者による研究によれば、EMは他の微生物資材に比べて性能が高いわけではない。それを特別に有効であるかのように述べるのは、病的な自信過剰である。有効性の根拠として実験成果が示される場合もあるが、信奉者による実験の方法論には疑問がある。

EMを環境に投入することについては、生態学者などの科学者の認識によれば、期待される水質などの改善の効果は不確かであり、生物多様性などへの悪影響の懸念がある。科学では今のところ(もしかすると永遠に)環境中の多様な因果関係のうちでどれが重要かを明確に評価できない状況だ。そこで特定の微生物群を投入するという措置が有効で無害だと自信過剰に断言するのは、世界の複雑性への無理解だ。(これは農薬をはじめとする新物質を生産し散布を奨励した化学工業にも言えることだが。)

EMが放射性物質放射能を消滅させるという説については、生物は原子核反応を起こす力はないという初等的科学の認識に反する。消滅したと称する実験の方法論はまずい。江本勝氏の「波動」や関英男氏の「重力波」はfashionable nonsense的「理論」である。

EMと呼ばれる物質をなまごみ処理・堆肥作りに使うこと自体をとがめる必要はないが、それの奨励が、その他の件についての上記(1)(2)(3)(4)の問題点をもつ比嘉氏の発言の信頼度を高めるのはまずい。そこで、自治体や学校でのなまごみ処理・堆肥作りについては、ニセ科学批判の立場からの批判は、EMを使うことではなく「EM」という名まえを出すことに向けられる。