専門家はそれぞれの専門に分かれて仕事をする。専門は思考様式を共有する集団で[Fleck (1934/1979)の読書メモ]、言語(方言)集団のようなものだ[Kuhn (2000)の読書ノート]。専門内では用語体系を共有することによって論理的相互批判を含む認識の共有ができる。ただし専門用語の意味は多くの場合定義として明示されておらず、専門メンバー間の相互較正によっているので、その用語体系を使えるようになるためには事例に接する訓練が必要だ。専門家になる人はふつう一つの専門の訓練で手いっぱいになるので、複数の専門の用語体系を使いこなせる人はめずらしい。しかし、現実社会の問題は一つの専門の範囲内で閉じていない。また、ある専門の用語体系を理解できる人の集団が特定の利害をも共有していると社会の判断が偏るおそれがある。複数の専門の用語体系を理解し、必要に応じて相互の翻訳ができる能力をもつ人がおおぜい必要だ。複数の分野について専門知識を生産できる人(Collins and Evans (2007) [読書ノート]の表現でcontributory expert)になること、大学院で訓練される専門ならば、およそ、博士号を複数もつこと、は、多くの人にとってむずかしすぎるだろう。しかし、複数の分野について、その用語体系を理解し使える人(Collins and Evansのいうinteractional expert、わたしは「通門家」と呼びたい)になることならば、およそ、修士号を複数もつことに相当し(修士ならばできるというものではないが)、そういう人をふやすことは、社会がその気になれば可能だと思う。
ただし、すでに博士号を持っている人や、専門的職業の実務経験を積んでいる人が、あらためて修士課程にはいって勉強する時間をとることは、現実にはむずかしいことが多いだろう。他方、何か「専門というもの」を身につけた人ならば、初めて専門教育を受ける若い学生に対する教育と同じことをしなくてよいこともあるだろう。そこで、大学は、ある程度意図的に、何かの専門家を第2の専門の通門家として育てる態勢を組んだほうがよいと思う。
これは2段がまえにしたほうがよいと思う。
教員の少しの努力で定型化できる部分は、たとえば夏休みや春休みの集中授業のような形で、第2の専門の知識を得たいおおぜいの人を迎えて開講するのがよいと思う。オンラインのコースウェア作成と兼ねることができるかもしれない。
さらに深く第2専門の用語体系を理解したい人は、フルタイムで何か月か、あるいはパートタイムで何年か、専門の実践の現場に滞在する時間をとる必要がある。第2専門の中で研究をして通常の修士論文を書くことをめざすのも一つの有効な形だが、第2専門の学問的主題(個別の研究論文よりは大きなまとまり)について第1専門の人を含む広い範囲の人に理解できるような解説を書くことを修士論文相当と認めてよいと思う。
通門家を育てるのに、もう一つの道筋がある。それは「専門」とか「学問」というもののありかたを研究対象とする人が、事例となる専門の現場に住みこんで参与観察をすることだ。観察者の学問的背景には文化人類学、知識社会学、社会心理学、歴史学(現代史)、政策科学などが考えられる。たとえばColeman (1999)は、日本の生命科学の現場に滞在して、科学者がどういう社会的条件の中でどういう動機で働いているかを論じている。その本では、生命科学の学問的課題のキーワードは出てくるもののあまり議論していない。しかし、学問について、社会的要因だけでなく学問内的要因にも立ち入ったアプローチもあってよいと思う。
長い目で見れば、社会の期待に応じた新しい専門ができ、今ある専門にとってかわっていくのだと思う。しかし、これまで各専門でつちかってきた知的遺産も活用できたほうがよい。旧専門と利害をともにしないが旧専門の遺産を引き継げる人がいてほしいのだ。
文献 (読書ノート・読書メモ参照としたもの以外)
- Samuel COLEMAN, 1999: Japanese Science: From Inside. Routledge. / [日本語版] サミュエル・コールマン著, 岩館 葉子 訳 (2002) 検証 なぜ日本の科学者は報われないのか。文一総合出版。