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世界の食料需給についての心配

世界の食料問題について(およそ2050年ごろまでを展望して)、食料危機は起きないとする楽観的見かたと、起きるかもしれないというやや悲観的な見かたの話を聞く機会があった。(きっと起きるという非常に悲観的な話はなかった。) 公開の会合ではなかったので、中の話題に詳しくふれることはしない。講師の著作を読む機会があればそれへのコメントとして別の場で述べるかもしれない。

ここでは、楽観的見かたに対して、起こりうる可能性を充分考えていないのではないかと思ったことを列挙する。

楽観的見かたの基本は、穀物の単収(面積あたり収量)は1950年以後飛躍的にふえており、先進国ではこの先は伸び悩むかもしれないが、途上国では大幅に改善の余地がある、ということだ。ただし、この単収の増加には、新品種の採用(遺伝子組みかえを含む)、化学肥料(おもに窒素肥料)、農薬、灌漑など、資源を多く投入することが前提となっている。途上国はこれから(政策を誤らなければ、という条件がつくかもしれないが)経済発展するのだから、資源投入は可能なはずだ、という信念が楽観的見かたの背景にある。

しかし、世界経済がこれまで成長してきたことはこれからも成長できる保証にはならない。むしろ、有限の境界条件のもとでは、これまで成長してきたからこそ、これから成長を続ければ限界にぶつかることが確実になるのだ。人間社会にとっての限界はいろいろな面がある。たとえば、食料を含むバイオマス資源、エネルギー資源、水資源、環境の4つに分けて考えることができる(環境はさらに細分したほうがよいかもしれないが)。ひとつの限界を避けるために努力すると、ほかの限界に近づいてしまうおそれもある。

上の4項目ならば環境に含まれるが、もうひとつの資源と考えたほうがよいものとして農地の土壌がある。土壌物質が、水によって流出したり、風によって飛んだりして、減ることがある。また、肥料が不足すれば土壌中の養分が減り、肥料をやったとしても養分のバランスが作物にとって不適切になることがある。このような問題がどれだけの規模で起きているか、またそのうちどれだけが防止可能かについては、多くの人が合意できるような情報がまだそろっていないように思われる。

環境問題のうちで資源投入に直結するものとして反応性窒素(硝酸など)の流出がある。これへの対策として、施肥量は、収量を最大にできるレベルよりも下げなくてはいけないだろう。

水資源は世界全体としては減らないと思われるが、収量あたりでは節約が必要になる。また地域によっては減る。地球温暖化が進行すれば地中海方面や北アメリカ南西部で減る可能性が高い。水資源がふえるところがどこか事前にはよくわからないし、それがわかってもうまく作付をふやせるかは政治情勢やそこの住民の選好しだいだ。

エネルギー資源にも明らかに限界がある。化石燃料が有限なのは当然だが、温暖化を小さく食い止めたければさらに早めにその消費を減らす必要がある。原子力をふやすことはむずかしくなった。太陽光直接利用は土地利用で農業そのものと競合してしまう。

そして、農業に資源を投入するためには経済的に豊かである必要があるが、経済成長が確実に期待できるか、という問題がある。

20世紀の経済成長はエネルギー資源使用量の成長とともにあった。エネルギー資源使用量成長抜きの経済成長は原理的に不可能ではないものの、確実に期待できるものではないだろう。製造業が成長しなくても第3次産業が成長することは可能かもしれない。しかし、もし成長するのが投機的金融だとすれば、それは食料相場の乱高下の主原因であり、歓迎できるものではない。

また、これから開発が進む国が、さきに開発が進んだ国の発展段階を追うことができる保証はないだろう。さきに開発が進んだ国には、外に、より未開発の国々があり、安い原料の供給源などとして期待することができた。開発が進んだ国の全部ではないが多くが、工業国に特化すること、つまり工業製品を輸出して農林水産物を輸入する国になることができた。これから開発が進む国の外部条件はそれとは違うのだ。自国の過去に比べれば工業が発達しても、外国に対しては工業国になりきれない国が続出するだろうと思う。

そして、開発が進むとともに農業も発達はするのだが、農産物の単価は工業製品ほどは上がらないと予想される。これは消費者にとってはよいことだが、農民にとっては物価が上がるにもかかわらず所得が上がらず、都市住民に比べて生活が苦しいことになる。このひずみを解消するには、農業の労働生産性を上げて少ない人数の農民で充分な量の農産物を作れるようにし、余った農民は都市に出ていけばよいと考えられている。都市で工業や第3次産業が栄えればそれでよいのかもしれない。しかしそれは確実だろうか。それに失敗すると、おおぜいの失業者をかかえた社会になってしまう。また、この水準の農産物単価で、収量は上がるとしても、そこに投入する資源の費用をうまくまかなえるのだろうか。

わたしには、経済成長をすれば必然的に人間が生きていくのに不可欠な食料の生産をする農業の地位が低下してしまうのならば、経済成長はよくないことではないかとさえ思える。

食料需要の面での楽観論は、経済成長が進めば、人口構成は少産少死型に移行するので総人口は大きくふえないですむ、というものだ。しかし、経済成長が確実でないとすれば、多産少死段階にとどまってしまうおそれがあると思う。ただしこの点は、その国が多産少死という現象を認識すれば、たとえ経済成長はしなくても人口政策をとれる可能性はあると思う。

もうひとつ、肉食の需要が高まると飼料として直接食べるよりも多くの穀物・大豆などの栽培が必要になるという問題がある。悲観論は世界じゅうの人が豊かになるとともに北アメリカやヨーロッパの人と同様に肉食をすると見積もったが、それが大きすぎることは確かだろう。しかし、これから豊かになるアジア・アフリカの国々の肉食需要がひとりあたり今の日本程度になるか、その半分程度(今のタイ程度)ですむかは、予測がむずかしい。