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活断層かどうかと原子炉稼動の判断は分けて考えよう

原子力発電所の立地場所に活断層があるかどうかの判定は前から問題になっている(渡辺ほか, 2012)。

そのうちで最近ニュースになったのは、福井県大飯(おおい)原子力発電所の構内にある断層らしいものが活断層かどうかということだった。NHKは次のように報道している。([2013-01-26追記] 次の3つのリンク先の記事は消えている。ニュース記事は1週間くらいで消されるようだ。ほぼ同じ情報を含むほかのページがあったらリンク先を変更しようと思う。少しあとのニュース解説番組のページを追加しておく。)

わたしはこれらの報道以外に詳しい情報を集めていない。またわたしはこの問題の専門家ではない。ただし日本第四紀学会員であり、1990年代には活断層の研究に関する話をたびたび聞いた経験はある。

岩石など(ふつうは地層)が、ある面を境として、面にそってずれたと考えられるようなくいちがいを示していれば、断層型の構造があると言えるだろう。また、その境の面にあたるところが厚みをもった層(地層とは別)になり、その層に含まれる岩石が細かく割れている場合は、破砕帯というべき構造があると言えるだろう。

しかし、1メートルぐらいの広がりの断層型あるいは破砕帯型の構造があって、その外側には同じような構造がつながっていないときには、地球科学者は、そこに断層あるいは破砕帯があるとは言わないだろう。断層あるいは破砕帯という用語は、空間スケールがある大きさ以上の場合に使われているのだと思う。しかし、その空間スケールが明示されてすべての学者の共通理解になっているわけではない。ここに断層の定義に関する個人差がある。(以下「断層」と「破砕帯」を「断層」で代表させて述べる。)

定義の違いとは別に、たとえ定義で合意でき、しかも同じものを見ていても、断層型の構造があるか、またどれだけの広がりをもっているかの事実認定に、学者個人ごとに違いがある。

さらに、断層が「活断層」であるかどうかが問題になっている。活断層とは本来、今すぐに動く可能性がある断層というような意味だと思うが、現実には、地質時代のうちで新しい時期に動いた断層、という意味に使われている。「新しい時期」は最近13万年間とされることが多いようだ。この13万年というのは、断層運動自体の特徴的時間スケールではなく、大陸氷床の消長に伴う海水準変動にとって現在よりもひとつ前の高海面期(関東でいう下末吉期)以後という、地形発達史上意味のある時間区間である。ひとつにはそれより古い時代の年代決定がむずかしかったせいでもあると思う。近ごろでは年代決定の能力が高まってきたのに伴って、たとえば最近40万年間に動いた証拠のある断層を活断層と呼ぼうという人がふえているようだ。

さて、原子力発電所について、「その重要施設は活断層の上にあってはならない」という規則があるらしい。そこで、施設の下にある断層型または破砕帯型の構造が活断層と判断された場合には、原子炉を稼動できないが、活断層でなければ稼動できることになっているらしい。

しかし、専門家間で、これが活断層であるかどうかの見解が一致しない。それはあたりまえだと思う。これが断層であるかの空間スケールの認識と、断層だとして活断層であるかの時間スケールの認識のそれぞれに、定義の問題と、具体的事実認定の問題がある。

一般に、科学的概念の定義は、純粋科学的によいものと応用目的上よいものが一致しないかもしれない。応用目的が明確な場合には、それに適した定義を考えるべきなのだと思う。ただし、応用目的の側から最適と思われる定義を設定しても、専門家がそれに合わせて答えを出せるとは限らない。専門家が答えられて、応用目的に適した定義を、両者の相互作用(相談)で決めるべきなのだと思う。

今の場合、純粋科学的には、断層自体のメカニズムあるいは地形発達史の立場から「断層」や「活断層」の適切な定義を論じることができるだろうが、原子力発電所の稼動の可否という応用目的には、それはあまり適切ではないだろうと思う。今ほしいのは、建築物の安全性に関する情報であり、これから数十年の間に動くかどうかの予想につながるものだ。(断層自体が震源となり直下型地震が起きることよりも、周辺の大きな地震につられて断層が動くことのほうが確率が高いので、おもに後者を問題にしていると思う)。あとはしろうと考えだが、対象期間を何十万年にものばす必要はなくて、最近千年以内に動いた、あるいは1万年以内に複数回動いたものを警戒するのが妥当だろうと思う。ただし、そのような最近の期間に動いた証拠がすでに知られているものに限るべきではなく、その可能性のあるものは詳しく調べて動きの履歴を検討すべきだと思う。[2012-11-25補足] 動いたのがそれほど最近でなくても、もし動いたら施設に大きな被害をもたらしうるものにも注意すべきだろう。

なお、放射性廃物の最終処分場の立地を考える際に適切な定義はこれとは違ってくるだろう。

定義について合意が得られたとしても、事実認定の個人差がある。個人差には利害関係が影響を与えるかもしれない。しかし、利害関係がなくても個人差は生じる。専門家の見解が幅をもったとき、一方の端を信頼して他方について利害関係による偏りを疑うのは、利害関係の証拠がない限り不適切だと思う。科学者集団としては、議論によって幅を狭める努力をしたうえで、残った幅を明示して報告すればよい。あとは政策決定者側の判断となる。

断層については、複数の断層型構造が離れたところに存在し、中間が直接観察できないとき、つながった大きな構造を想定するか、別々のものとみなすか、というところで、認定に関する個人差が生じやすい。純粋科学としては、大きな構造を仮定するのは大胆な仮説であり、小さな構造が別々にあると考えるほうが安全寄り(慎重)な態度として尊重される。防災目的では、大きな構造のほうが大きな地震につながりうると考えられるので、大きな構造があると考えるほうが安全寄り(事前警戒的=precautionary)な態度として尊重される。しかし、事前警戒的態度を、あまりに大胆な仮説にまで適用するのは現実的ではない。科学的裏づけのある仮説が複数あるとき、そのうちの選択の際に有効な態度なのだ。

断層に関する科学的判断は、それが原子力発電所の稼動の可否におよぼす影響に影響されるべきではない。

しかし、学者も人であり市民でもあるので、その立場では価値判断をもつだろう。

原子力事故に対する事前警戒は他のリスクに関する判断に比べて圧倒的に重要だと考える人もいる。福島第1原子力発電所の事故以後はそういう意見が正論と考えられることが多くなった。しかし、原子力発電所を稼動しないと停電が起こる確率は稼動した場合に事故が起こる確率よりも高いだろうし、停電によって生命の危険が生じる可能性もある。そちらを重視する態度をとることは、住民としてもありうることであり、「電力会社の手先」とは限らない。発電所稼動の審査にかかわる学者集団から停電リスクを重視していた人をはずすべきだという主張は適当ではないと思う(そういう人ばかりになるとまずいと思うが)。

また、産業技術総合研究所(産総研)にいる活断層の研究者のほとんどは、産総研になる前の旧組織では地質調査所(地調)に属していた。地調は通産省傘下にありそのエネルギー政策の影響を受けていたが、「原子力むら」とはかなり違った文化をもっていた(「地質むら」ということはできるかもしれない)。産総研や旧地調の所属の人をいちがいに原子力事業者寄りとみなすことはないと思う。

ただし、原子力発電所建設事前評価の委員に、活断層の専門家としていつも同じ人を入れていた(渡辺ほか 2012 参照)のはまずかった。そのような立場にある人が「原子力むら」的発想にそまるおそれはある。人をときどき交代させるとともに、活断層ならば活断層という主題の専門家たち(必ずしも1つの学会などの場に集まるとは限らない)の見解の広がりをつかむことができる人を入れるべきだ。

活断層の問題は原子力にとどまらない。たとえば、石油タンクも、活断層の直上にあるのはこわい。しかし、事前警戒的に、活断層かもしれないものがある付近には石油タンクを建てないという方針に徹すると、ある地方では石油備蓄ができなくなってしまうかもしれない。どの規模のタンクはどの程度の地震に耐える構造にすればよいか、詳しく考える必要があるだろう。

住宅などの建築も制限することも考えられる。たとえば、活断層が認定されたらそこから100メートル以内では建物を建築してはいけない、という法律をつくったらどうなるだろうか。土地の所有者はその土地を活用する可能性をきびしく制限されるが、国が代わりの土地を提供してくれるわけではない。これでは従えないだろう。禁止ではなく「推奨しない」として税制などで誘導するしかないだろうと思う。

【さて、地球温暖化のリスクに関して、科学的知見のうち、事前警戒側を示す学者がいる。その例としてJames Hansen氏がいる([Hansen (2009)の本の読書ノート])。彼は、(ここは専門家ではなく市民としての判断と思うが)、温暖化を小さくくいとめるために、石炭火力をすぐ廃止するとともに、原子力を増設することを提案している。今のほとんどの日本人から見れば、原子力事故リスクを軽視していることは明らかだ。しかし、温暖化リスクも本物のリスクであって、Hansen氏と多くの日本人との違いはリスクどうしの重みづけのちがいにすぎない。】

文献