(6月29日朝ごろTwitterに書いたことを整理しなおして述べる。まだ整理が充分でないと感じているが。)
国の政策のうちには、当事者以外には影響の少ないものもある。その場合は、各人がそれぞれ自分の利害や価値観を主張して、力関係で妥協点を決めればよいかもしれない。しかし、合意しない人もいやおうなしにまきこまれるものもある。現代日本では、税制、社会保障制度(生活保護制度も含む)、エネルギー資源(原子力も含むがそれに限らない)、環境政策(地球温暖化対策も含むがそれに限らない)、海洋政策、国防政策などがそれにあたるだろう。実際に全員が合意できる政策を見つけることはむずかしいが、なるべくそれに近づけるようにしていくべきだろう。このごろ「合意形成」ということばがよく使われるのはもっともだと思う。
しかし、「合意形成」とは何かについての合意形成(循環論法的な表現をしてしまったが実質循環論法ではないはず)ができているとは必ずしも思えない。合意形成を得るための方法についての見解の違いももちろんあるが、その前に、合意形成とは何をめざした活動なのかについて、いろいろな考えがあると思うのだ。
わたしは「合意形成」とは「複数の立場の人々が共有の『意』をもつようになること」をさすことだと思っている。(ただし、それが各人にとって唯一の「意」になることは求めていない。)
しかし、その「意」とは「意味」なのか「意見」なのか「意志」(あるいは「意思」)なのか。
ここで「意味」と書いたことの意味がわかりにくかったかもしれない。「合意」は英語の「consensus」であり、それは「senseを共有すること」だと考えたときの「sense」のつもりだった。少し説明的に述べると「議論対象のことがらについての認識」というようなことだ。「IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が得たconsensus」と言ったときはこのようなものをさすにちがいない。
【IPCCは、報告書を出すという形式的意志を別として、意志をもたない。IPCCは「帰結Cを望むならば政策Pが合理的である」という構造のことを述べる。Cが望ましいとは言わない。各個人や政府が自分の価値判断と合わせてそれぞれのPを主張する。報告書の「行間」に著者たちの価値観・意志が見られるだろうが、それは機関としてのIPCCの意志とは区別されるべきだ。】
IPCCを例に考えてみると、得られたconsensusは事実認識の完全な一致ではない。人々の事実認識が幅をもっていることを含めた認識だ。そのための合意形成の作業は、まず参加者が共有できる概念体系をもつこと、次にその概念体系のもとで参加者おたがいの認識の共通点と違いとを明示することだと思う。
「意見」という表現は何をさすか、考えてみると、あいまいだ。むしろここには「価値判断を一致させることができるか」という課題がある。これはいちばんむずかしいことだと思う。
【わたしは(わたしが使っている日本語で)「意志」と「意思」とは別の単語ではなく表記のゆれだと思っている。法律用語などの専門用語として区別があることは認めるが自分は区別する言語集団に属していない。ここ以後では仮に「意思」と書く。】
政策決定の意思を共有するには、事実認識も価値判断も共有していたほうがしやすいけれども、事実認識や価値判断については違いがあっても、意思は共有できるということもあると思う。
政策決定の意思を共有するとは、理想的には、共同提案者のような立場になることだと思う。しかし、現実にはそこまでいかないことが多いと思う。しぶしぶ受け入れる人がいるような状況も、合意形成という尺度で、明確に不満のあるまま強制執行するのよりはましなのだと思う。