今年1月1日以来なん度か書いている話題だが、自分ながらこれまでの表現はわかりにくかった。また表現をくふうしてみる。
国際単位系(SI)つまりいわゆる「メートル法」の接頭語を知っていることを前提とする。不幸なきっかけだったが、去年以来「ベクレル(Bq)」や「シーベルト(Sv)」についた形でほとんどの人が聞いているはずだ。基本となる単位の前について、たとえば「ナノ(n)」は十億分の1、「ミリ(m)」は千分の1、「キロ(k)」は千倍、「ギガ(G)」は十億倍を意味する。
違った人が意識するものごとの危険度を比較するのはむずかしいのだが、仮に「危険度1」がどんなものかについては共通理解があるとしよう。
ある現象の危険度について、人々の意見が、ナノからギガにわたっているとする。
その現象に関する科学的知見にも不確かさがあるが、科学的証拠に基づいた議論では、その現象の危険度の推定値はミリからキロの範囲に分布するとする。
それがミリであると認識する人々と、キロであると認識する人々が、政策決定の場で対立しているとする。
議論が二者択一になっていると、ミリであると認識する人々はナノであると主張する人々を、キロであると認識する人々はギガであると主張する人々を、それぞれ自分の身方だと思いがちになり、その主張の極端なところへの批判はにぶりがちになる。逆に、ミリであると認識する人々はキロであると認識する人々をギガであると主張する人々と同一視し、キロであると認識する人々はミリであると認識する人々をナノであると主張する人々と同一視して、極端な主張とみなして切り捨てようとする。
これでは、もし決着するとすれば、一方が他方を力でねじふせるような形しかないだろう。ねじふせられた側の人々は、逆向きに力でねじふせる機会をうかがうことになるかもしれない。意見をもつ人のほぼ半分が納得しないまま政策が進んでいくのは、まずいことだ。
しかし、政策決定の課題はめったに二者択一ではなく、もっとたくさんの選択肢を考えて、どれならば大多数の人が納得できるかをさぐることだ。
危険度の認識に幅があるときだれの認識を重視したらよいかは、危険をもたらす現象やそれを受ける社会の構造によって違ってくるのでいちがいには言えない。
しかし、ここで想定した状況では、わたしは、危険度の認識がミリからキロの範囲にある人々が合意できる政策をめざして議論を進めることを提案したい。ナノであると主張する人やギガであると主張する人を締め出すことになるがやむをえないと思う。