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気候変化には適応策だけでなく軽減策も必要だという、不確かさの中での判断

地球温暖化の科学にかかわる科学者たちのブログ RealClimate のRasmus Benestadさんの3月7日の記事http://www.realclimate.org/index.php/archives/2011/03/what-we-do-not-know-in-terms-of-adaptation/ で紹介されていたので、次の論文を読んだ。

  • Naomi Oreskes, David A. Stainforth and Leonard A. Smith, 2010: Adaptation to global warming: Do climate models tell us what we need to know? Philosophy of Science, 77, 1012 - 1018.

(RealClimateの記事にあったJSTORのリンクhttp://www.jstor.org/pss/10.1086/657428 をたどったら論文本体は有料だった。JSTORには職場のIPアドレスが認識されており、職場に請求されたら職務上必要な文献だと主張はできるが事務手続きがやっかいだと思った。個人でのクレジットカード払いが可能だったのでそれでよいことにした。)

Oreskesさんは科学史家、StainforthさんとSmithさんは、気象学者の間ではその仲間と認識されているがむしろ気象を対象とする応用数学者らしい。科学哲学の雑誌に出したのは、不確かさをなくすことができない科学知識を政策判断にどう使うかという一般的問題の一種なので、科学に関する倫理的問題として議論してほしいということらしい。読んでみると、哲学的な議論というよりも、政策論争に対する一方の論陣を張っている感じだ。ただし、同じ側の論陣にいる他の論客の主張とは食い違うかもしれない。

人間社会が化石燃料を消費しているので、地球温暖化は、ある程度は、避けられなくなっている。

(ここを否定する温暖化否定論者もいまだにいるし、言論は自由だが、そのような否定論を主張しつづける人は、科学知識に対する心理的否認状態に陥っているか、科学の裏づけがないことを承知で作為的に述べているかのどちらかである可能性が高い。後者のうち北アメリカの主要なものについてはOreskes & Conway (2010)の本 Merchants of Doubt [読書ノート]で論じられている。)

したがって、人間社会として気候変化に対する適応策をとる必要があることは明らかだ。他方、二酸化炭素排出抑制などの温暖化軽減策(mitigation、日本語では地球温暖化の文脈では「緩和策」が定訳となっているがわたしは「災害軽減」にならって「軽減」としたい)をとれば、正確な大きさはわからないものの、温暖化を相対的には小さく食い止められることも、多くの科学者が認めるところだ。

この状況のもとで、地球温暖化に対しては適応策だけをとればよく軽減策はとらなくてよい、あるいは軽減策のための立法や予算措置を積極的にしなくてよいという主張をする人たちがいる。直接には、軽減策の費用は適応策の費用よりも高いという理屈になっていることが多い。その主張の背景には、現在の産業活動の態度を変えたくないというbusiness as usualの政策的立場とともに、地球温暖化を予想する科学に対する(否定論ではないものの)懐疑論があることが多い。温暖化の見通しには不確かさが大きく、したがって軽減策の効果の見通しにも不確かさが大きいから、政策決定の材料としてとりあげる価値がないというわけだ。

Oreskesさんたちの論文はそれに対する反論だ。軽減策をとらなければ、より大きな変化に対する適応が必要となり、その費用も大きくなる(この定量的な大きさは不確かでも定性的な傾向は確かだろうとしている。そこを疑う人と議論をかみあわせることはむずかしい)。ところが、気候変化の見通しが不確かなので、適応策の費用の見積もりも不確かであり、「適応策のほうが軽減策よりも安い」といった主張ができる根拠はない。

さらに、適応策の評価と軽減策の評価で考慮する必要がある不確かさの違いに注意を向ける。

人が適応しなければならないのは、ローカルな気候だ。もしローカルな気候の変化が精度よく予測できるならば、社会はそれを前提として適応策を考えることができ、費用を安くすることができるかもしれない。ところが、科学者が(まだ大きな幅があるものの、かなり)自信をもっているのはグローバルな気候に対する予測(という用語を仮に使っておく)であり、ローカルな気候の予測はそれに比べてむずかしい。グローバルな予測をもとにローカルな変化を推定するdownscalingと呼ばれる手法の研究が進められているが、その結果はグローバルな予測とdownscaling手法の両方に依存しその両方の不確かさを合わせ持つにちがいない。適応策は、将来のローカルな気候の見通しが大きな幅をもつことを前提として考えるしかない。

他方、軽減策を考えるためには、軽減策をとるかとらないかの違いが各地で人間社会に与える影響を評価する必要があり、それにはローカルな気候の見通しが関与するのだが、こちらの場合は、完全にはずれたのではまずいが、場所がずれても、生態系や社会の特徴が似たところで発生する変化は似た影響を及ぼすことが多いので、有効な予測とみなせることがある。

つまり、適応策を評価するために必要とされる科学知識には、軽減策を評価するために必要とされる科学知識よりも不確かさが大きいので、(軽減策の費用の評価は別問題で、ここではとりあげていないが)、「適応策が安い」という主張の根拠はますます弱いのだ。

結論は、軽減策と適応策の両方を推進するべきだということだ。

わたしもほぼ同じことを考えていたつもりだが、まだ漠然としていた。この論文のほうが主張が形になっている。ただし、まだ一方的な主張であり、違う観点の人の合意を得るには、落ち着いて、どういう倫理規範に基づいた判断なのかなどをもっと明確にする必要があると思う。

ただし、気候モデルによる予測型計算を推進する人たちのうちには、ローカルな気候予測を改善することを主目標としている人が多いと思う。そういう人たちの予算をとったり組織を整備したりしたいという要望に対して、この論文のような理屈は、否定的に働くかもしれない。

(気候モデルによる予測を推進している中心となっている人たちの主張に対して、この著者たちは、地球温暖化が科学の課題としても政策課題としても重要だという認識では賛同するが、そのためにモデルによる予測をどんどん精密化していくことに予算を投入してほしいという主張に関しては冷やかなのだと思う。Oreskesさんの1994年の(当時有名になった)論文の主張は、地球科学のモデルが厳密に検証できるものではないということだった(具体的対象は気候ではなく核廃物がらみの地下の環境評価のモデルだったが)。Smithさんは、カオスに関する解説書(わたしはまだ読んでいないが)の著者でもあるし、日本語では『明日をどこまで計算できるか』という題で出ている本[読書ノート]の著者のOrrellさんの気象学の論文の共著者であり指導者だったらしい。Orrellさんの主張を全部共有しているわけではないと思うが、予測可能性については楽観していないようだ。Stainforthさんは個人のパソコンをたくさん使ってシミュレーション事例をふやすclimateprediction.netの初期のリーダーであり(今は離れたらしい)、グローバルな気候に関しても不確かさの幅は大きいと述べた人だ。)

ローカルな適応のための気候予測は、長期のグローバル予測からのダウンスケーリングよりも、変化を感知して修正するという意味での「適応型」管理のための、気候的意味では短期の予測を主要課題としていく必要があるのではないだろうか。それに加えてグローバルな(どちらかといえば軽減策にかかわる)影響評価のための具体的サンプルとして地域を選んで細かく見る必要もあると思うが。

[2011-05-07追記: Oreskesほか(2010)の論文の細かいまちがいに気づいた。Ramanathan and Feng (2008)という論文の著者のY. FengさんをInez Fengと書いてしまっている。Inez Fungさん(大気・植生間の二酸化炭素交換などの研究者、カリフォルニア大学Berkeley校教授)と混同したにちがいない。Fengさんの当時の所属はScripps海洋研究所で、Oreskesさんと同じカリフォルニア大学San Diego校の中だが、直接面識はなかったのだろう。]

文献 (読書ノートにリンクしたもの以外)

  • Naomi Oreskes, Kristin Shrader-Frechette and Kenneth Belitz, 1994; Verification, validation, and confirmation of numerical models in the earth sciences. Science, 263, 641 - 646.