IPCCとWikipediaとは共通の特徴をもっていることに気づいた。
(わたしはIPCCには直接かかわっていない。IPCC報告書(もちろん全部ではない)を読んだのと、IPCCに採用されることを想定した研究活動にいくらかかかわっているだけだ。IPCCに深くかかわっている人と顔を合わせることは多いが、IPCCのしくみに関して直接詳しく聞いているわけではなく、わたしのIPCCに関する情報源はそういう人が一般向けに書いている解説である。)
(Wikipediaのほうも、長いこと単なる読者だったのだが、昨年夏から別の目的でMediaWikiソフトウェアを扱い始めたのをきっかけに、この正月から少しだけ編集に参加している。)
IPCCの報告書にまちがいが発見されたという件について、Wikipediaの記事改訂にちょっとかかわったのだが、それに関する議論をいろいろ読んでいるうちに、うっかりすると、どちらのまちがいの話かわからなくなってしまった。両方に同じ構造の問題点が指摘されていたのだ。
総合報告を書く場合、著者はものごとを自分の考えで整理して述べることができるし、むしろそれが期待されることが多いだろう。ところが、IPCC報告書も、Wikipedia記事も、仮にWikipedia用語で表現すると、信頼できる情報源に基づいた記述でなければならず、独自研究を書いてはいけない、という特殊な制約のある総合報告なのだ。
もちろん、編著者の仕事は単純に材料を列挙することではなく総合報告としてまとめることなので、創意くふうが求められてはいるのだが、それは裏方的創意くふうなのだ。
どちらの場合も、編著者はボランティアでありほかの仕事を持っているのがふつうだから、ほかの立場で独自研究をすることはかまわない。(IPCCの場合、編著者は、外の場での独自研究の実績によって選ばれてきた。そういう選択基準が望ましいか、むしろIPCC編著者に専念できる人を雇うべきかは、賛否両論あるが。) ただし、その成果を使おうとすれば、まず外の場で、他の編著者や査読者に信頼できる情報源と認めてもらえる形で発表しなければならない。
Wikipediaの場合、だれでも参加でき、ルールに違反して制裁を受けている人以外はだれでも編著者になって記事を書きかえることができる。参加者の間で意見が一致しないときは争いになりやすい。そこで、中立性を重要な目標にし、ルールを設定している。ルールがあっても争いがなくなるわけではないが、ない場合に比べて少なくすることができる。まだ世の中にほかの情報源がない話題を扱うことがむずかしい、独創性の高い人の参加が少なくなるなど、百科事典としてのおもしろさにとっては不利なところもあるが、記事が荒れて品質の評判が悪くなるよりはよいという判断はもっともだと思う。
IPCCの場合は、気候変動枠組み条約締約国会議(これはIPCCとはまったく別の組織であることに注意)などの政治の場で使われる材料としての信頼度を高めるために、報告書を各国政府代表に(「政策決定者向け要旨」は字句まで、本文は包括的に)承認してもらう手続きをとる。政府間組織とはいっても政治的利害から中立な立場で知見を評価することが求められているので、IPCC自体の権威ではなく、外の信頼できる情報源に基づくことが必要なのだ。なお、IPCC報告書の編著者・執筆者は政府や国際機関などから指名された人に限られているが、査読者になるのは関連分野の専門的著作のある人ならばむずかしくない。
もちろん、何が信頼できる情報源であるかは両者でだいぶ違う。
IPCCの場合は「査読済み研究論文」に基づいていると言われることが多い。ただしこれは、IPCC第1部会に参加している自然科学者による説明であり、第1部会の実情には合っているのだが、第2・第3部会は必ずしもそうではない。最近になって、第2部会の参考文献のうちに信頼できないものがあったことが指摘された際に、それが査読済み研究論文でないことが形式的にIPCCのルールに違反するという批判があったが、その批判は誤解にもとづいたものだ。(誤解を招いた原因は他部会の事情をよく知らなかった自然科学者にあると思うが)。実際のIPCCのルールは1月25日の記事「ヒマラヤの氷河に関するIPCC第4次報告書のまちがい」への1月27日の補足で紹介した。結局、信頼できるかどうかは編著者が判断しなければならないのだ。編著者の判断能力も無限ではないから、IPCCに対しては、扱う対象を際限なく広げるのではなく、編著者が品質を保てる範囲に限るように求めたほうがよいのではないかと思う。
Wikipediaのほうは、何を信頼できる情報源とするかについて大まかな指針はあるがきびしいルールではなく、それぞれの記事ごとに議論がある。研究論文が使われることもないわけではないがふつうではないようだ。信頼できる情報源でないものとしてよくあげられるのは個人のウェブサイト(ブログを含む)だ。ただし、その個人が何を発言したかに関する情報源が求められた場合は別で、本人が発信しているもののほうがよい。時事的な話題については、新聞社やテレビ局などのマスメディアのウェブサイト記事が情報源とされることが多い。しかし、結果として信頼できないこと(誤報、不適切な見出し)もあり、また、事実のとらえかたが違う編著者たちが違う情報源をもとに争うこともある。(Wikipediaが時事的問題を扱うべきかどうかという問題にわたるのは、今回は見送る。)
以下はわたしが最近Wikipedia英語版の少数の記事のTalk (日本語版の「ノート」に相当)ページ(およびいくつかの個人ブログなど)を見て認識したことにすぎないので、そのつもりで読んでいただきたい。イギリスの新聞社の記事はよく情報源として使われるが、センセーショナルな表現を好むいわゆる大衆紙は議論の末に不適切だとされることが多い。それに加えて、これまで信頼されてきた新聞にもときどきひどい記事があることが指摘されている。たとえば、人が実際言ったのと違うことを言ったという形で伝えることがたびたびあるそうだ。こういう問題は大衆紙にもあるが、ある高級とされる日刊紙の日曜版も、日刊紙とはまったく別の編集体制なのだそうだが、これの常習犯のようだ(記者個人の問題もあるようだが1人だけではない)。また、環境関係では定評のある新聞の記事にも、粗製乱造なのか、ひどいものが混ざっていたり、相互に矛盾していたりする。なさけないことだが、時事的な件に関しては、これまで信頼されてきた新聞の記事でも、またWikipediaのうちでも実績のある英語版の記述でも、まゆにつばをつけて読む必要がある。