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旧正月をきっかけに暦について考えたこと

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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日本の旧暦の今年 (十干十二支は「壬寅」(じんいん、みずのえとら) ) の新年は 2022年2月1日だった。中国の「春節」、ベトナムの「テト」[注] も、同じ日だった。

  • [注] Tết、これは漢字の「節」の音に由来し、Tết Nguyên Đán(テッ グエン ダン、「節元旦」)の略だそうだ。この部分の情報は Wikipedia 日本語版「テト」の項による。

同じ日なのは偶然ではない。いずれも中華文明の伝統の太陰太陽暦なのだ。「太陰太陽暦」は、1か月の長さは月のみちかけにあわせるが、1年の長さは太陽年 (近代科学でいえば地球の公転周期) にあわせる。1年が、12か月だったり、うるう月を入れて13か月だったりする。

しかし、同じ日になることは確実ではない。

暦を編成するルールを「暦法」という。太陰太陽暦のうちでも、それぞれの月の日数は29日か30日か、年はじめはどの日か、うるう月をどのように入れるかなどは、暦法によってちがう。中華帝国の冊封下の国は帝国の暦をつかってきた。冊封関係がない国は、過去の中国の暦法をつかって独自に計算したり、独自の暦法をつくったりした。日本は、中国が暦をかえても、唐の宣明暦の暦法をつかいつづけてきたが、貞享暦から幕府主導で独自につくるようになり、最新のものは天保暦だ。中国の最新の暦法は清朝による時憲暦だ。

暦法がちがえば、日付が1日ぐらいずれることのほか、うるう月の入れかたによって1か月ずれることがありうる。同じ暦法でも、別々に計算すれば、ずれることがある。たとえば、日界の時刻をいつにするかによって、日付が1つずれるかもしれない。また、日本で貞享暦ができるまえ、宣明暦が採用されたあいだに、民間で朝廷とは別に計算されたことによって、たとえば 1582/83年にうるう月の不統一があったことがある。

日本は、太陰太陽暦をもはや国がきめていない。ただし、伝統的な暦のうちの太陽暦の部分である二十四節気だけは、国にかわって国立天文台がきめている。二十四節気のうちの春分・秋分が国の祝日になっているが、太陰太陽暦にもとづく国の祝日はないからだろう。日本の民間では、天保暦の暦法がつかいつづけられている。これで、2033年前半まではまぎれなくきまるそうだが、2033年後半/34年前半に天保暦をつくった人の想定外の事態が生じ、いつうるう月をいれるべきかがきまらないそうだ (Wikipedia 「旧暦2033年問題」の項による)。

中国では、いまでも「農暦」とよばれる太陰太陽暦の日付を国がきめているらしい。それにもとづく国の祝日があるからだろう。

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今年 2月1日に、ネット上 (わたしはおもに Twitter をみている) の英語圏で、"Happy Chinese New Year!" というあいさつがとびかった。それに対して、この日が正月なのは中国だけではないから「Chinese」をさけてほしいという意見があった (今回のそういう話題の発端となった発言をしたのは韓国の人だったらしい)。その人たちは「Lunar new year」と言ってほしいと言っていた。

しかし、わたしにいわせれば「Lunar new year」は東アジアのものにかぎらない。イスラム暦などの純粋な太陰暦もある。また、インドの太陰太陽暦の伝統がある。これは中国とはちがい、黄道十二星座に関連している。ただし、起源は同じでも暦法はさまざまに変異しており、日付が一致するとはかぎらないらしい (わたしの知識はおもに岡田 (2002) による)。

今年2月1日を新年とするのは、いわば漢字文明圏の太陰太陽暦なのだ。それをあらわす Chinese でないことばがほしいと思う。くるしまぎれだが、East Asian Lunar new year としておくのがよいかと思う。

【ここで「漢字文明圏」という表現をつかったが、わたしはここで「文化」と「文明」を区別している。文化のちがいは話しことばの言語のちがいで近似される。文明のちがいは (先近代にはいってきた) 経典の文字の系統のちがいで近似される。日本と中国とは文化はちがうが、同じ文明の傘下にある。文明圏を文字で代表させる考えは [2011-06-13 文明の言語と学術用語] でのべた。】

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太陰太陽暦の正月の行事が、日本ではあまりおこなわれなくなっているが、ほかの東アジアの国ぐにでは生きている。このちがいがどうして生じたのだろうか? ということが、ネット上でいくらか話題になり、いくつかの答えの候補がだされたが、結論は出なかったと思う。

日本では、東アジアの伝統的な暦のうち、太陽暦的要素である、立春などの二十四節気は生きている。俳句の季語の季節のくぎりはそれにしたがうものとされている。また、「八十八夜」など、日本独自に立春からかぞえた日数による季節の用語も、生きのこっているものがある。しかし、太陰太陽暦の日付にしたがっておこなう行事の多くがすたれている。太陰太陽暦とグレゴリオ暦のくいちがいのなごりが、「月おくれ」の行事となったものがある。 8月15日のお盆、8月7日の たなばた などだ。(この2つの月おくれがひろく採用された事情には、グレゴリオ暦の7月にすると、つゆどき になり、雨にあいやすいという、気候の要因もあると思うが。)

日本と東アジアの他の国とのこのようなちがいをもたらした要因があるかもしれないと思って、いくつか想像してみたが、どれも有力な説とは思えない。

  • 日本では、月のみちかけの情報の必要性が早くうすれた? (照明が普及したから?)
  • 日本では、太陽暦のほうが月のみちかけによる日付よりも寒暖や雨などの気候要素によく対応することが早くから認識されていたので、太陽暦がこのまれた?
  • 日本の人民は明治政府に忠実であった?
  • 明治政府とは別のたちばから太陽暦を推進した人びと、たとえば福沢諭吉による宣伝の影響があった?
  • 日本の人民は、新旧の制度があると「新」がよいものだと考えがちであり、したがって「新暦」がこのまれた?

偶然のめぐりあわせで、太陰太陽暦の新年などが 祝日などの国の制度に 日本では採用されず 他の国では採用された、という分岐が生じ、それぞれ持続してきただけだろう、と、わたしは暫定的に推測している。

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現在の日本の祝日に「建国記念の日」がある。日本国憲法のもとでの当初の「国民の祝日」にはこれはふくまれていなかった。日本国憲法にもとづく国の体制のはじまりを記念するには、憲法施行の日を記念した「憲法記念日」があればよいと思われただろう。「建国記念の日」はあとで追加された。それをどの日とするかは法律でなく政令できめる形となり、自民党内閣が2月11日を採用した。あきらかに明治憲法体制での「紀元節」をひきついだものだが、そう明示されはしなかった。「紀元節」の日付の根拠をさかのぼると、ある年の太陰太陽暦の1月1日をグレゴリオ暦になおしたものだとされている。「月おくれ」とはちがう形だが、ここでも、太陰太陽暦の日付をグレゴリオ暦上で固定するという伝統の変形がおきている。【もし、明治体制の日本が太陰太陽暦で祝日をきめたとしたら、元日を紀元節ともよぶことになったのだろうか?】

文献

  • 岡田 芳朗, 2002: アジアの暦 (あじあブックス)。大修館書店, 254 pp. ISBN 4-469-23190-8. [読書メモ]