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たまりの量と流れの量

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしもしめしません。】

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わたしは数年まえから、地球環境 (大気・水圏) についての授業や解説で、「たまり」と「流れ」という用語の組をつかうことにしている。

その直接のもとは、英語の stock と flow だ。これは、経済学や経営の文脈では、日本語でも「ストック」と「フロー」として出てくる。しかし、わたしはなるべくならば かたかな外来語をつかいたくない。試行錯誤のすえに、「たまり」と「流れ」がよさそうだと、いまは思っている。英語の stock も flow も日常語に専門的な意味をのせたものだから、日本語でも同様なことができればそれがよいだろうとも思う。

ただし、日常語の意味がそのまま通用しているわけではない。わたしは「たまり」と「流れ」をそれぞれ数量をさすものとしてつかいたいのだが、日常語での「たまり」と「流れ」は、大小のどあいを論じることはできる対象ではあるけれども、数量ではないだろう。

【「たまり」が日本語の日常語であるというのはちょっとくるしいかもしれない。日本語には、動詞の[学校文法用語でいえば]連用形を 名詞としてつかう機能があるが、近代には漢語、現代には英語などからの外来語におされて、それがおとろえていた。その機能を復活させたいという思いもあって、「たまり」を名詞としてつかおうとしている。】

【なお、わたし個人についてふりかえれば、「たまり」は日常語のうちにあったが、それは調味料のしょうゆの一種(「さしみだまり」ともいう)をさすものだった。それと別に「水たまり」ということばがあって、地面に水がたまっている状態をさしていた。それとの類推で「〇〇のたまり」と言われれば〇〇がたまっている状態をさすと推測できるという意味で、ここでいう「たまり」も、かろうじてわたしの日常語にふくまれていたと言えるかもしれない。】

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わたしが論じる「たまりと流れ」は、「質量のたまりと質量の流れ」であるか、「エネルギーのたまりとエネルギーの流れ」であることが多い。

質量保存の法則という物理法則があり、質量は不生不滅の量だから、質量のたまりの量が変化するとすれば、それは質量の流れによって、正味の流入 (流入 ひく 流出) だけ変化するのだ。このことから、たまりの変化か、流れか、一方の数量がわかれば、他方の数量を知ることができる。それは、質量収支解析という方法の基本にもなるし、質量が時間とともにどう変わっていくかのシミュレーションのモデルを組む基本にもなっているのだ。

この「質量」のところをいっせいに「エネルギー」に置きかえても同様なことがいえる。

なお、現実には、すべての質量についてではなく、物質の種類を限定した質量保存を考えることが多い。

水収支は、固体(氷)・液体・気体(水蒸気)の3相をふくむ 水(H2O) にかぎった質量収支だ。ここでは水とほかの物質とのあいだの化学変化を省略している。そのような化学変化は現実にはあるが、往復の変化がほぼ同じだけおきているので正味の数量としては無視できるばあいが多いのだ。

また、大気中の二酸化炭素の量の変化を考えるときには、炭素収支を考える。ここでは、原子核反応による炭素とほかのものとのあいだの変換を省略して、炭素原子にかぎった質量保存を考えている。

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おかね(貨幣) は、保存則をみたす量ではない。しかし、ローカルな近似として、おかね の たまり は、収入額だけふえ、支出額だけへる。質量やエネルギーの収支に関する議論と、おかねの収支に関する議論の類似性は、両方向に理解をたすけるのにつかわれていると思う。

情報にも stock と flow があるが、その性質は保存則とはあまりにていない。ただし、伝達という意味でも、長期的保全という意味でも、なくしたくない情報にかぎって、それをなくさないために必要な資源量をみつもる文脈にかぎれば、保存則から類推できることはあるかもしれない。

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地球科学 (そのうちでとくに気象学) の教育をうけてきたあいだに、わたしがつかってきたことばは、「たまり」と「流れ」ではなかった。

「たまり」にあたるところは、英語では「storage」、日本語では「貯留量」とすることが多かった。この storage は、store ということばの、だいたい「ためる」という意味の動詞としてのつかいかたから派生した、だいたい「ためられたもの」という意味だと、わたしは理解している。

ところが、水収支だったかエネルギー収支だったかの、他の専門家が書いた文献を読んでいたら、storage あるいは「貯留量」ということばを、わたしのいう意味ではなく、わたしのいうstorage (あるいは貯留量)が時間とともにどれだけ変化しているかをさしていることがあった。そういう表現の根拠をわたしなりに想像してみると、storage や「貯留」を「storeすること」「貯留すること」という操作として認識しているのかもしれない。そう認識している人からみれば、わたしのつかいかたのほうがまちがいと感じられるかもしれない。

「たまり」にあたるところのもうひとつの英語表現は「content」だ。(たとえば heat content、これは、内部エネルギーあるいはエンタルピーを「熱量」と呼んでしまうたちばからの、熱量のcontentである。) 日本語には訳しにくいことばだ。「含有量」や「保有量」では意味がつたわりにくい。[この段落 2020-05-31 追加]

「流れ」の量のほうは、英語では「flux」、日本語でも かたかな 外来語として「フラックス」とすることが多かった。英語の flux の日本語訳としては、「流束」ということばもあるのだが、「りゅうそく」では「流速」がさきに出てくるから、これはわたしにはつかえないことばだ。

しかし、flux ということばにもまぎらわしさがある。

広い範囲の物理科学の共通の用語の標準として、たとえば『理科年表』の「物理・化学」の部のはじめのほうを見てみると、(たとえば質量の) 「フラックス」あるいは「流束」は、単位時間あたりの(たとえば質量の)流れをさしている。単位時間あたりのさらに単位面積あたりの (たとえば質量の)流れは、(たとえば質量の) 「フラックス密度」という。英語では flux density だ。「〇〇密度」はふつう「体積あたりの〇〇」なのだが、フラックス密度のばあいは「面積あたりの〇〇」だ。

ところが、気象学・海洋学などの研究者の日常の用語では、「フラックス密度」という表現はめったに聞かれない。「フラックス」で単位時間あたり・単位面積あたりの流れの量をあらわしてしまうのだ。英語でもそうで、たとえば、気象・海洋などの分野のデータ交換の事実上の標準のひとつである CF Conventions ( http://cfconventions.org/cf-conventions/cf-conventions.html ) に出てくる flux はいつも単位時間あたり・単位面積あたりの量 (エネルギーフラックスならば単位は W m-2)である。

気象学の専門家共同体のメンバーでも、広い意味の物理科学の専門家共同体のメンバーでもあろうとすると、こまってしまう。

そこで、わたしは、「貯留量」も、「フラックス」も、数式表現をそえてそのうちのどの変数に対応するかをしめせるばあいにかぎってつかうことにした。数式なしで話すときは、別の表現をくふうすることにした。それで、わりあい誤解がすくないと思った表現が、「たまり」と「流れ」なのだった。

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保存則は、ある箱の中のたまりの量の時間変化が、箱の壁をとおる流れの量にひとしい、と表現することができる。(ここでの流れの量は、単位面積あたりではなく、箱の全部の壁について合計したものである。)

ところが、これを数式表現に対応させるとき、時間という物理量の次元をどうあつかうかが、文献ごとあるいは著者ごとに、かならずしも統一されていないことに気づいた。

わたしは、たまりの量を X とすれば、「たまりの量の時間変化」とは dX/dt [Xの時間による微分] のことだと思う。流れの量は、Xと同じ次元の量が単位時間あたりにどれだけ動くかだと思う。たまりの量の時間変化も、流れの量も、物理量の次元は、Xの次元を時間の次元でわったものになる。Xがエネルギーであるばあいにかぎれば、たまりの量のSI単位は J [ジュール] であり、たまりの量の時間変化と、流れの量は、いずれもSI単位がジュール毎秒つまり W [ワット] となる。

文献によっては、「たまりの量の時間変化」は、期間のはじめのXの量と期間のおわりのXの量との差 (ただし、おわりのほうからはじめのほうをひく)をさす。「流れの量」も、ある期間のあいだに移動したXの量をさす。たまりの量の時間変化も、流れの量も、物理量の次元は、Xと同じだ。【わたしが気づいたうちでは、熱力学の初級の教科書のほとんどが、こちらのたちばで書かれている。】

なぜこのようなちがいが生じたか考えてみると、わたしは、定常状態を基本に考えているのだ。ただし、この定常状態とは、ものが動かない状態ではない。一定の流れが続いている状態だ。現実の流れがかならずしも定常でないことはわかっているが、まず定常状態を想定して、それから現実がそれとどうちがうかを考えるのだ。理想的に考えるときには、定常状態がつづいている時間は無限に長くとれる。時間について累積した流れの量はさだまらない。だから、流れの量といえば、単位時間あたりの流れの量なのだ。

現実が定常状態でないという認識から出発して、なにかの事件にともなう質量やエネルギーの動きに注目する人は、事件の前から事件の後までの期間のたまりの変化と動いた量とを論じようと思い、単位時間あたりの量を論じようとしないだろう。【熱力学の教科書のばあいは、はじめとおわりの状態にだけ注目し、変化がどれだけの時間をかけておこるかは問題にしない、という態度をとるから、こうなるのは当然なのかもしれない。】

この観点のちがいは、統一できないだろうと思う。わたしの授業をうける人や文章をよむ人に向けては、「わたしは「時間変化」や「流れの量」を単位時間あたりのものをあらわすものとしてつかっているので、そのつもりで読んでほしい」と、あらかじめことわるしかないだろう。【とくに熱力学を基礎知識としてつかうための接続は注意が必要だ。】

なお、わたしも、ときには、単位時間あたりではない質量やエネルギーの動きの量についてのべることがある。そのばあいは、「流れの量」という表現をさけて、「移動量」のような表現をつかっている。「時間変化」もさけて、「期間のおわりとはじめの差」と言うことにしようと思っている。(ただし、こちらは、「変化」と言ってしまうこともあると思う。単位時間あたりの「時間変化」とは区別しているつもりなのだが、この微妙なちがいはつたわらないと思うので、もし「変化」と表現する必要があるばあいは「単位時間あたりではない」と補足しようと思う。)