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重症観者と軽症観者 (仮の用語) -- 地球温暖化問題への適用

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしもしめしません。】

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増田 聡 さん(@smasuda) がTwitterで、2020年3月12日と22日に、新型コロナウイルス感染症についての人びとの態度を「重症派」と「軽症派」に分類する議論をしていた。

感染症が将来どうなるかの見とおしが不確かななかで、重症になると予想する人たちと、軽症になると予想する人たちがいて、その判断のちがいが、政策について、また人びとの行動についての、評価のちがいにつながっている、という話だと、わたしは理解した。

この概念は、感染症にかぎらず、リスク、つまり(おおまかにいうと) 〈危険をもたらすおそれがあるが不確かなことがら〉についての人びとの態度の議論に有効なことがあると思った。

ただし、「派」という表現は、同じように考える人たちどうしでまとまり、ちがう判断をする人の意見をますますみとめにくくなる傾向がある、というような、実際に(すくなくともTwitter上では)見られる状況をよくとらえているとはいえるのだが、そういう状況を強化してしまうおそれがあると思うので、わたしはなるべくつかいたくない。

また、とりこしくろうかもしれないが、「重症派」という表現を「重症になってほしいと思う人びと」と誤解する人がいるかもしれないと思う。

そこでわたしは、個人ごとの事実認識をさしていることを念頭に、(ききなれない表現ではあるが)「重症観者」「軽症観者」という表現をしてみたい。

わたしはこれを、病気にかぎらず、いろいろなリスクに使いたいのだが、便宜上「症」という表現はそのままにして、被害をこうむっている状態をしめすことにしたい。

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地球温暖化についての話のかみあわなさを、これまでわたしは、「(温暖化)懐疑論者、否定論者、脅威論者」などということばをつかって論じてきたのだが、なかなかうまく整理できなかった。

「重症観者」と「軽症観者」というわくぐみのほうが、うまく整理できそうな気がしてきた。

今回の感染症流行のまえについての認識だが、ヨーロッパでは、温暖化重症観者が世論をリードしていると思う。ただしこれは、ヨーロッパのみんなが温暖化重症観を支持しているという意味ではなく、温暖化重症観に賛同しない人もふくめて多くの人が、温暖化重症観が表明されることはあって当然だと感じているだろうという意味だ。

アメリカ合衆国では党派化する傾向があるようだ。実際には複雑なのをむりやり単純化してのべると、「保守」・共和党支持者のあいだでは軽症観、「リベラル」・民主党支持者のあいだでは重症観が「正しい」とされ、両派のあいだでは会話がなりたちにくくなっている、という構造らしい。

日本の世論は、温暖化軽症観に支配されているように感じる。もっとも、温暖化軽症論がよく聞かれるというわけではない。しかし、もしだれかが温暖化重症論をのべはじめても、それがひろまらないうちに減衰してしまうような、場のふんいきがあると思うのだ。

こうなってしまった理由のこころあたりのひとつは、2011年の原子力事故だ。環境に関心のある人たちのあいだで、放射性物質による汚染が温暖化よりも重視されがちになった。さらに、温暖化重症観を前提にすると、原子力の是非の議論をしないわけにいかなくなり、環境重視の運動が分裂してしまうのがこわいので、温暖化重症観を話題にするのをさけている、ということもあるか(?)と思う。

もうひとつは、将来おこりそうなことについてのわたしの推測だが、地球温暖化がすすめば、日本の気候にも変化はあるものの、それが直接人間社会におよぼす影響(インパクト)はあまりおおきくなくすむだろうと思われるのだ。しかし、世界には、気候の変化が人間社会にもっとおおきなインパクトをおよぼすところがあり、そこの人間社会から日本の人間社会へのインパクトのほうがおおきいことがありうると思う (一例をあげれば、住めなくなった国から日本に難民がおしかけるという形で)。しかし、日本では、地球温暖化の話題は、日本の気候がどう変わるか、そのインパクトはどうなるか、に しぼられてしまうことがおおい。これが軽症観をもたらしている面もあると思う。

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「重症観者・軽症観者」でうまく整理できるばあいもあるが、さらに区別する必要があることもある。

  • 危険をもたらしうる現象の大きさの予想にはばがあるとき、大きめの予想と小さめの予想のどちらをおもにみるか。
  • 危険をもたらしうる現象の大きさの予想が同じでも、それを重大とみるか気にしないか。

ここで「危険をもたらしうる現象」と表現しておいた概念は、自然災害論では「ハザード」と言っているものだ ([2018-01-30の記事]参照)。

【わたしは、たまたま、英語の hazard を知るまえに、その語源であるにちがいないフランス語の hasard (おもな意味は「偶然」)を知ったので、「ハザード」ときくとそちらをさきに考えて、とっさに意味をとりそこなうくせがある。それで、「ハザード」ということばを、自然災害論の専門用語として必要ならばつかうが、自分からの表現としてはなるべくつかいたくないのだ。しかし、ここでは、ほかの みじかい表現を思いつかないので、便宜上つかう。】

地球温暖化については、温暖化(という表現で代表される気候変化)がおこることについて否定的・懐疑的ではないが、それがおこっても人間社会にとってこまったことではないだろうとみる態度がありうる。それをわたしは「温暖化無問題論」とよんだことがある。ここの文脈では、これは温暖化についての軽症観の一種だが、ハザードを小さくみているわけではなく、その人間社会への影響(インパクト)が軽いだろうとみているのだ。

極端な例(わたしは内容に賛同しない)をつくってみると、「海水面が100年で6メートルあがる」という予想を本気で考える人が、「それは人間社会にとってはこまったことではない。対策はできる。その影響にはいいこともある」と考えるかもしれない。ハザードについてみれば重症観、インパクトについてみれば軽症観、と言えるだろうか。

こういうわけで、「重症観者・軽症観者」というわくぐみは、ねりなおしが必要だと思っている。