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持続可能で健康な社会のために、容器再利用の技術と社会技術がほしい

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

- まえおき -
この問題に、わたしは何度もぶつかるのだが、近ごろ思いあたったのは、2019年6月1-2日に日本人口学会の大会に参加したときだった。

人口学会では、おもに歴史人口学のセッションで、江戸時代の人口変動の話をきいた。それからちょっとだけ、現代の人口のセッションにも参加した。はじめて知ったことではないがあらためて、現代の常識とくらべると、むかしは人が死にやすかった、ということを感じた。感染症や、栄養の偏りによる病気が多かった。もっとも、 政治的近代化(日本ならば明治維新)や産業革命ですぐ死亡率がさがったわけではない。感染症で死ににくくなったのは、日本も、世界も、大まかにいえば、第2次世界大戦後ごろからだろう。

人口学会があったのは高松だったから、わたしははじめて、瀬戸大橋をわたった。20世紀の文明は、このような鉄の構造物をつくり、鉄道や道路をとおすことができた。そういうことができたのは、化石燃料が使えたおかげだろう。(製鉄には、燃料よりもむしろ還元剤として、石炭のコークスを使う。) 化石燃料を使うのをやめても、再生可能エネルギーはあるが、それは空間密度があまり高くない。化石燃料の時代のような構造物をあらたにつくることがむずかしくなるだけでなく、いたんだところの更新さえむずかしくなるだろうと思う。(まったく不可能になるということではなく、20世紀末なみの個数の建設や維持が不可能になるだろうということ。)

同じころ、マスメディアでプラスチックごみがさかんに話題になっていた。その話題は、海のごみ、海洋生物への悪影響に集中していたが、プラスチック製品をたくさんつくること自体が持続可能でない、という議論もあった。これは化石燃料というよりも原料としての石油がゆたかにあることへの依存だと思うが。

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これからの人間社会が、持続可能なものであってほしいと思う。そうすると、化石燃料にたよりつづけるわけにいかない。「産業革命」の基本が化石燃料の動力としての利用だとすれば、その逆、いわば「脱産業革命」あるいは「産業反革命」をやる必要があるのだと思う。もちろん、単純に産業革命まえの人力と家畜力の時代にもどるわけではない。産業革命以来の時代にえられた科学的知識をつかうことはできる。しかし、化石燃料時代の技術の運用をつづけるのでなく、エネルギー資源の需要を減らすことと、再生可能エネルギーに適応することが必要だ。

現代の人が死ににくくなっていることをささえる技術は維持できるだろうか。

そのひとつは医薬だ。これについては、わたしは議論できるほどの知識がないが、しろうとなりに、おもな課題は、下にのべる生鮮食品のばあいと同様だろうと思う。

食料の供給のうちで、穀物のような長期保存できるものは、船や陸路でゆっくりはこぶのにはあまり多くのエネルギー資源をつかわなくてすむので、ある地域で不足しても他地域から融通できるだろうと思う。

むずかしいのは、生鮮食品を生産から消費まで品質をたもってとどけることだと思う。近ごろは、冷凍・冷蔵輸送や大急ぎの輸送がよく使われるが、それはエネルギー資源をたくさん使う。また、さまざまな材質があるがおもにプラスチックの容器・包装を使い捨てにすることによって、衛生的であることが保証されている。

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そこで、現代社会にとって重要な課題は、衛生をたもちながら、容器・包装を再利用(reuse)することだと思う。

1970年代ごろの日本をふりかえってみると、ガラスびん (とくに牛乳びん、ビールびん)の回収再利用はうまくいっていたと思う。規格を統一して、業者間で互換性をもたせたのだ。

ガラスは、透明なので、破損や洗浄失敗が見つけやすいことも、再利用にむいている条件だった。しかし、重いこと、割れると破片が危険なこと、などの欠点もあって、すくなくとも家庭むけの多くが、使い捨ての紙やプラスチックの容器におきかわっていった。

これから、飲みものにかぎらず、食品についても、容器を回収再利用できるような、容器と、輸送、洗浄などの道具をふくめた、いわば人工物の生態系を開発する必要があると思う。そこには、人が容器回収をしたくなるような社会体制づくりも必要だ。(配達者が回収するのか? 消費者が回収場所にもちこむのか? 行政が回収するのか?)

人類社会の持続のために、いくらか不便になること、いくらか容器の選択の自由が減ることは、しかたないと思う。しかし、不便になりすぎないように、多様性が減りすぎないように、くふうしたいものだ。