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酸と酸素のまぎらわしさ -- 「acidification」は「酸化」ではない

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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ある文章中に (その文章の論旨にとって重要な位置ではなかったが)「海洋の酸化」ということばがあった。英語からの翻訳なので、原文を見たら「acidification of the oceans」だった。この acidification ということばは、acid (酸) からきていて、ラテン語由来の要素からのくみたてとしては「(なにかを)酸にすること」だから、日本語の漢語由来の要素でくみたてれば「酸化」になるのはもっともなのだ。ところが、日本語の化学用語には、「○素と化合すること」を「○化」というくみたてかたがある。「酸化」ということばは、「酸素と化合すること」という意味でつかわれてきて、いまではそれに関連するがそれにかぎらない重要な概念をあらわしている。「酸化」がふさがっているので、acidification は日本語では「酸性化」といわれている。問題の文章については、訳者に連絡して、修正していただくことになった。

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この acidification は、実際には、酸でないものを酸にすることではなく、「酸性 - 塩基性」(このばあいは「酸性 - アルカリ性」と言っても同じ、ただし「塩基」と「アルカリ」は同じでない) という軸のうえで、状態を酸性がわにずらす、という意味でつかわれている。「水素イオン濃度」ということばをつかえば、「水素イオン濃度をふやすこと」だ。「pH」という表現をつかえば「pHをさげること」だ。【ついでながら、「pH」を「水素イオン濃度」といってしまうことがあるが、概念としては はずれではないが数量の大小は逆になるので、注意が必要だ。】

さらに、「海洋の酸性化」は、ちかごろ(西暦2000年ごろからだろうか?) 単に pH の変化ではない意味が定着している。二酸化炭素が大気から海洋にとけこむ量がふえることによって、海水中の二酸化炭素・炭酸水素イオン・炭酸イオン(「全炭酸」とまとめられることがある)と水素イオンとの化学平衡がずれて、それぞれの濃度がかわることなのだ。それによって、炭酸カルシウムが海水に溶解しやすくなるので、炭酸カルシウムの殻をつくる貝やサンゴなどの生存に困難をもたらす、という環境問題となっている。入門的解説としては、たとえば、東京大学 海洋アライアンスに[海が酸性化する] [2021-12-12 リンクさきを Web Archive に変更] というページ (保坂直紀さん、2015年) がある。

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「酸化」のほうは、英語では oxidation だ。この oxidation のもともとの意味は、「(なにかを)酸素と化合させること」であり、まず「酸素」(oxygen)、それから「酸化物」(oxide)という概念とことばができて、それにつづいてつくられた表現にちがいない。

化学が発達するうちに、「酸化」という用語は、かならずしも酸素がからむものにかぎらず、「酸化 - 還元」という重要な軸のかたがわをあらわすものになってきた。

【この「還元」(英語では reduction) も、その単語本来の意味と、化学での「酸化」の反対という意味とを、文脈によって区別しなければならないので、ややこしいことになっている。】

なお、地球科学の文献で oxygenation という語を見ることがある。辞書でみつけた意味はなにかに人工的に酸素をくわえることだったが、その文献の文脈は自然現象で、酸素(とくに酸素分子 O2) の濃度が高くなる、という意味にちがいない。日本語では説明的に表現したほうがよいとおもうが、あえて1語にすれば「高酸素化」だろうか (高いのは濃度だが「濃度」を省略している)。これは oxidation とは別の概念だが、おおまかに同じ方向にむかう状況をあらわしているとはいえる。O2の濃度が高い状態は、酸化 - 還元の軸で酸化のほうにだいぶすすんだ状態でもあるにちがいないから。

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いまの化学用語のあらわす概念として、「酸素」は「酸」とは直接に関係がない。(酸は酸素をふくむ化合物であることがおおいが、そうでないこともある。) しかし、日本語の単語をくみたてる漢語の要素としては、あきらかにおなじものをふくんでいる。用語の意味を語源から連想すると、さまざまなかんちがいがおこりうる。

まぎらわしさが生じた原因をさかのぼれば、いまにつながる化学元素の体系ができるのにおおきく貢献し、とくに酸素を元素として明示した ラヴォアジエ(Lavoisier)が、酸素は「酸のもと」だと考えて、「酸」の意味をもつギリシャ語由来の要素 oxy をつかって(フランス語で) oxygène となづけたことだ。

【「歴史のもしも」としては、ラヴォアジエが、酸素を、燃焼にとっての重要性にもとづいて名づけたことがありえたかと思う。しかし、対立する学説として「燃焼とはフロギストンが物体の外に出ることだ」という説があり、フロギストンということばはギリシャ語で燃焼をあらわす要素をつかってくみたてられていた。「燃焼とはXと化合することだ」の「X」をフロギストンとよべないのは当然だが、それとまぎらわしい語をつかうこともできなかっただろう。「燃素」になる可能性はなかったのかもしれない。】【[2021-06-04 補足] しかし、水素などに「可燃性」があるのに対して酸素には「助燃性」があるといういいかたをされることがあるから、漢訳すれば「助燃素」になるような元素名はありえたかとも思う。】

酸素が「酸のもと」ではないとわかったところで、用語を変えるべきだったとおもうのだが、元素記号「O」が定着してしまったので変えられなかったのかもしれない。また、英語やフランス語などのおおくの言語では、「酸」には acid などのラテン語由来の要素をつかう。おそらく acid と oxy の語源は同じなのだろうが、文字のみかけはだいぶちがい、発音も区別できる程度にちがうので、まぎれることはない。おそらく、ほとんどの英語話者は、oxygen から acid を連想しないだろう。

中国語では、元素名は近代になってから専用の形声文字をつくって表現している。酸素は「氧」(yǎng)だ。これは「養」と同じ音で、「養気」という表現からきているらしい。酸素(ここではO2)が動物の生存に不可欠なものだという認識からきているのだと思う。「酸」とはまったく関係がない。だから、中国語でも、「酸化」と「酸性」のまぎらわしさは生じない。

韓国・朝鮮語の事情をわたしはよく知らないが、Wikipediaの項目名を日本語からたどって、行きさきのページの表題がおそらく意味の対応する語だろうと判断したかぎりでは、酸は san、酸素は sanso なので、日本語と同じまぎらわしさがおきているのだろう。【Wikipedia の言語間リンクは、意味のひろがりのちがう語につけられていることもあるので、それだけで断定しないように注意している。】

また、現代ギリシャ語では、Wikipediaの項目名をたどってみると、英語の acid に対応するものが οξύ (oxy)、oxygen が οξυγόνο (oxygóno) だから、やはり、まぎらわしさが生じているにちがいない。

日本語などいくつかの言語で、化学の重要な用語群に、このようなまぎらわしさがあることは、とても残念なことだ。しかし、「酸素」や「酸化」も、「酸」や「酸性」も、別の用語にいいかえることはむずかしそうだ。たびたび注意していくしかないのだろう。