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ジュギョー / ジギョー

【まだ書きかえます。いつどこを書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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わたしの発音を反省してみると、ジュギョー (授業) と ジギョー (事業) を区別していないことに気がついた。日本語の共通語ではこのふたつは同音語ではないが、わたしの個人言語では同音語である。

わたしは「ジュ」と「ジ」の区別をしていないのだろうか、と反省してみると、少なくとも長音の「ジュー」と「ジー」は区別している。また、日本語の方言には「ズ」と「ジ」の区別があいまいになるものもあるが、わたしの場合はこの区別がまぎれることはない。共通語でもわたしの個人言語でも、「ズ」と「ジ」は子音がちがうが、「ジュ」と「ジ」は子音がおなじだ。そのうえに母音が短いとき、わたしは母音の区別がおろそかになるようだ。

「授業」と「事業」を、わたしはだいたい文脈で区別している。「授業」は学校 (塾もふくむが) でやることで、学校以外の文脈ではほとんど出てこないのだ。ただし、学校が、たとえば「百周年記念事業」などというものをはじめると、まぎらわしいことが生じやすくなる。

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上にのべた「学校」に、わたしは大学もふくめる。わたしが大学でやっていることは「授業」なのだ。

高校でやっていることは「授業」だが、大学でやっていることは「講義」だとして区別する人もいる。

わたしは、大学でも「授業」という表現をすることのほうがふつうだ。理由はいくつかある。(しかしどれも決定的理由ではない。)

  • 大学の授業としておこなうことのうちには、講義のほかに実習もある。その両方をふくめて「授業」といいたい。
  • わたしの個人的用語感覚として、大学で「授業」ということばは、成績をつけるとか、卒業に必要な単位数にかぞえられるとかいう制度にくみこまれたものをさしている。「講義」のほうは、講師がおおぜいにむけてなにかの知識をつたえるという実質をさしていて、制度にくみこまれているかどうかは関係ない。そうすると「授業」でない講義もあるのだ。(ただし、「授業」でない講義は「講演」と表現したほうがよいことが多く、反省してみると、そういうものを実際に「講義」と表現した経験は多くない。)
  • 「講義」ということばは同音語がある。たとえば「抗議」とまぎれることがあるかもしれない (あまり頻繁にありそうではないが)。

なお、「集中講義」については、わたしは「集中授業」とはあまりいわない。その理由は「集中講義」という表現になじんでしまったという習慣にすぎないだろう。実習科目の場合にどう言うかは、その授業ごとに考えることになるが、「集中実習」が適切だと思ったらそう言うだろう。