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「氷が溶ける」はまちがいではないがうまくない。「とける」としよう。

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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地理学者のAさんが、 「氷河が溶ける」と書いていた。
地理学者のBさんが、Aさんの文字づかいはまちがっていると言っていた。

わたしは、Aさんの文字づかいがまちがっているとは思わない。しかし、その文字づかいをすると、Bさんをふくむ、かなりおおぜいの人たちを怒らせる。だから、そのような文字づかいをさけるのが得策だ。

では、どうするか? 「とける」という日本語のひとつの語を「溶ける」「融ける」などと書きわけるのは、まちがいではないが、日本語話者の義務にするにはむずかしすぎる。ひらがなで「とける」とするのがよいと思う。

【わたしは、訓よみをやめようという持論をもっている。しかし、ここでは、それを主張するのではなく、「とける」という例と、それから類推できるばあいについて、ひらがなにしたほうがよいと主張するだけにしておく。】

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Bさんの理屈は、「溶解」と「融解」は、自然科学の概念として、別ものだということだ。塩が水にとけるのと、氷がとけるのは、どちらも、固体が液体になることではある。しかし、塩が水にとけるのは、すでに液体である水という溶媒に塩がまざることだ。氷がとけるのは、温度があがることによって、氷自体が固体から液体の水になるのだ。これは区別しないといけない。

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しかし、わたしは、その区別は、「溶解」「融解」ということばをつかうか、「塩が水にとける」「氷が熱でとける」などの補足説明をすることによってわかるようにすればよいと思う。

「溶ける」と「融ける」は、ふたつの別々の単語ではなく、「とける」というひとつの単語の意味のひろがりのうちのちがいと見るべきだと、わたしは思う。

同じ単語は、いつも同じ文字づかいで書きたい、という理屈もある。そのたちばでは、「塩が水に溶ける」と書くならば、「氷が溶ける」と書くべきなのだ。Aさんが実際にどう考えたかわたしは知らないが、このようなすじからは、Aさんの文字づかいは「正しい」といえると思う。

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日本語の文字づかいには、同じ単語であっても、漢字の意味を意識してつかいわけるという伝統もある。

しかし、つかいわけに必要になる漢字の意味の知識は、日本人の教養としてのぞましいかもしれないが、日本語を書くならばみんな知っておくべき基礎知識ではないと思う。義務教育や高校の教育目標として、漢字のつかいわけを求めるのは、きびしすぎると思う。

伝統にしたがうならば、古典漢文で、「溶」「融」がそれぞれどういう意味につかわれていたかを知って、それにあわせてつかいわけるべきかもしれない。

しかし、Bさんが区別したい「溶解」と「融解」は、古典漢文のことばではなく、近代科学の概念を表現するために、日本で幕末から明治の時代に考えられたか、または中国から輸入されたことばだろう。その「溶」と「融」のつかいわけが、古典漢文での意味をひきついでいるのか、あたらしく発明されたのか、わたしは知らない。

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1946年に制定された「当用漢字」からはずれて以来、あまりつかわれなくなったが、「熔」という字もある。

いまでは「溶融」「溶岩」と書くが、これは本来「熔融」「熔岩」だったはずだ。わたしは古典漢文での意味を確認していないが、おそらく「熔」がさすのは、岩石や金属などの固体が高温で液体になることであり、溶媒にとけることではないだろう。

それでは、「氷が熔ける」と書いてもよいのだろうか? 近代科学の概念としては、「熔」と「融解」は同じプロセスをさしているので、その観点では、よいはずだ。

しかし、古典の用語としては、(わたしは古典を勉強していないがおそらく)、「融」は人間がふだん体験する温度範囲でおこること、「熔」はそれにくらべてずっと高い温度でおこることをさし、両者はかさなっていないのだろう、と、わたしは推測する。(「温度」は古典の時代にあった概念ではないが、ここでは便宜上この用語をつかった。) 「鉄が熔ける」はよいが、「氷が熔ける」という文字づかいは、すすめられないだろう。

いずれにせよ、「熔」の字は、すでに現代日本語から消えようとしている字であり、いまさら訓よみで持ち出すべきではないし、音よみのばあいも、「溶岩」「溶融」が定着しているので、それでよいと思う。(このおきかえは、単に現代日本語でのよみが同じだけではなく、(藤堂明保氏の用語でいう) 同じ「単語家族」の字どうしにちがいないので、すじがとおっていると思う。)

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「解ける」という文字づかいはどうだろうか。

「解」の字は、「溶解」「融解」のどちらの熟語にもはいっているのだから、どちらの意味でつかってもよい、という考えかたもできる。

しかし、「解」のもともとの意味のひろがりは、「溶」とも「融」ともずれているだろう。

「とける」は、「結びめをとく」のようなばあいを典型として、「問題をとく」などにひろがった、「とく」という他動詞がさきにあって、それに関連する自動詞とみるのがよいと思う。「解」の意味のひろがりは「溶」「融」よりも、この「とく」に近いと思う。「解」は「分解」「解体」の「解」でもある。「溶解」「融解」に「解」がはいっているのは、固体が液体になることよりもむしろ、固体の構造 (塩や氷の結晶) がこわれていくことをさすような気がする。(これはわたしのかってな感覚であり、古典のうらづけを確認したわけではないが。)

だから、「氷が解ける」は、もし「氷」が物質をさすのならば不適切だと思うが、具体的な氷のかたまりをさすならばよいかもしれない。「氷河が解ける」ならば、氷河という構造をもった物体がこわれるので、よさそうだ。

しかし、わたしとしては、やはり、ひらがなで「とける」と書くことをすすめたい。