macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

「複雑系」「バタフライ効果」などの語を使った話について、気象学育ちの感想

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

- 1 -
2017年11月16日ごろ、Twitterを見ていたら、「複雑系」という語の不適切な使いかたが話題になっていた。

何かと思ったら、2017年11月14日に毎日新聞社のウェブサイトに出た、内田 樹[たつる]さんによる記事 「衆院選 知の巨人・内田樹氏 至極真っ当な提言! 安倍独裁制 本当の正体」についての話だった。この記事は『サンデー毎日』11月26日号にのったものだそうで、見出しと本文最初の段落を書いたのはこの雑誌の編集部にちがいない。

わたしが見たかぎりで、この記事に賛同する形で紹介するものとしては、安倍政権への批判への賛同があったものの、少なかった。この記事に反対するというよりも「あきれた」というような印象を語るものが多かった。

まず、これは内田さんにではなく編集部に「あきれた」ということだが、「知の巨人」という形容は不適切だろう、ということがあった。現代日本では「知の巨人」という形容は皮肉として使われることが多い (それならば内田さんにあてはまるかもしれない)、というコメントもあった。わたしは、実際に多いかは確認していないが、皮肉として使われるのを見たことはある。しかし、ここで編集部が皮肉として使ったとは思えない。おそらく、選挙制度なり政党政治なりの個別の専門分野の専門家ではなく、専門分野を横断した広い視点からの知識を提供してほしいと思い、内田さんにはそれができると期待したのだろう。評判をみると、その期待にはこたえられなかったようだ。これは内田さんが悪いのではなくて、そういう人は得がたいということなのだと思う。

どうやら内田さんは、今回の選挙の結果では安倍政権が支持されたことになるけれども、それは民意をすなおに反映した結果ではなく、選挙制度そのほかのしくみが悪いので、そのしくみの改革が必要だ、と言いたいようだ。しかし、その主張に反対の人ばかりでなく、賛成の人からも、この記事の議論は雑すぎて役にたたない、というような批評があったようだ。

その、議論が雑であるという批判を構成する材料のうちには、記事のはじめのほうで「複雑系」ということばの意味を正しく理解しないで使っている、という批判があった。学術用語の意味を正しくふまえずに感覚的に使ってしまうことの弊害を論じたものとしては、ソーカル(Sokal)とブリクモン(Bricmont)の『知の欺瞞』がある。内田さんの議論もまさにその本で批判されていたものの同類だという意見も見られた。

わたしは、内田さんの「複雑系」という用語の使いかたは、たしかに、まずいと思う。しかし、その用語の使いかたは まちがい だと決めつける批判者にも共感できないところがある。ではどう考えているのか述べてみようと思う。(字数制限のきついTwitterでは書ききれないのでブログ記事にする。)

- 2 -
問題の内田さんの記事のはじめのほうの途中に次のような文章がある。

初期入力のわずかな違いが大きな出力の差を産み出すシステムのことを「複雑系」と呼ぶ。代表的なのは大気の運動である(「北京での一羽の蝶(ちょう)のはばたきがカリフォルニアで嵐を起こす」)。

この最初の文は「複雑系」ということばの定義に見えるが、わたしの知るかぎり、それはまちがっている。しかし、それでは正しい定義はどんなものなのか、わたしにはよくわからない。

複雑系」ということばには、まず、文字どおりの「複雑なシステム」という意味がある(ここでは「広い意味」と呼ぶ)。他方、それを主題とする応用数学あるいは数理科学の分野(仮に「複雑系論」と呼んでおく)で学術用語として使われている意味は、広い意味と多少のかさなりはあるものの、別ものと思うべきだろう。

わたしは複雑系論の専門家による本をいくつか読みはしたが、「複雑系」の定義はよくわからなかった。専門家のあいだで「複雑系」という語の意味が統一されているかどうかも知らない。ただ、わたしは、気象学を学んできたので、Edward N. Lorenz (ローレンツ)のいわゆる「カオス」に関する議論を知っている。そしてそれが複雑系論に含まれることは確かだと思う。わたしの「複雑系」に関する認識はLorenzの視点をとおしてのものになる。

さきほど引用した内田さんの文の背景にLorenzの議論があることはあきらかだ。わたしが[2016-05-23の記事「(勧めたくない用語) バタフライ効果」]で論じたものだ。「初期入力のわずかなちがいが大きな出力の差をうみだす」[注]ことが、俗に「バタフライ効果」と呼ばれる。Lorenz自身は(たとえば2016-05-23の記事の参考文献にあげたLorenz (1993)の本で)そういう用語は使わず、「初期入力のわずかなちがいが大きな出力の差をうみだす」ような状況を「カオス」と言った(カオスの定義というわけではなくその主要な特徴のひとつとしてだと思うが)。Lorenzの用語習慣にしたがったわたしの感覚では、「初期入力のわずかなちがいが大きな出力の差をうみだすシステム」を「カオス的システム」(chaotic system)のように言いたくなることはあるが、「複雑系」(complex system)とは言わない。

  • [注] Lorenzの議論の説明ならば「初期状態のわずかなちがいが...」と言うべきなのだが、ひとまず内田さんの表現にあわせておく。

- 3 -
「カオス」(chaos)は、日常語として、漢語の「混沌」(の広い意味)と同一視されることがあるような、広い意味をもっている。それとは別に、応用数学の(「複雑系論の」と言ってもよいと思う)学術用語としての意味がある。

わたしは(学術用語としての)「カオス」とは次のような現象だと認識している。

  • システムの構成は、確率的(stochastic, random)な要素を含まない決定論的なものである
  • システムのふるまいは、定常状態や周期的変動ではなく、もっと複雑である。

残念ながら、わたしは、ここでいう「複雑」をきちんと述べられないので、カオスの定義もきちんと述べられない。

カオスの典型例としてよくあげられるものに、(上にリンクした2016-05-23の記事の参考文献としてあげた) Lorenzの1963年の論文で扱われたものがある。これは、重力場のもとにある流体が、下が高温、上が低温にたもたれたときに生じる対流 (ベナール対流)を表現できるかぎりで、流体の運動方程式系をできるだけ単純にした、3元連立常微分方程式系だ。パラメータの数値にもよるのだが、ふつう、この系には定常解はなく、時間とともに状態はつねに変わっていく。ベナール対流の実験では、蜂の巣型の六角形のセルがならんだ構造ができることがある。このセルの中央に上昇流、壁付近に下降流ができることと、逆に中央が下降流になることの両方の可能性がある。Lorenzの数値実験にも「中央で上昇」と「中央で下降」にあたると解釈できる状態があるのだが、実験を始めるときの条件にごくわずかなちがいがあると、両状態のあいだをいつうつりかわるかは、まったくちがってくる。これが「大きな出力の差」にあたるのだ。

もっと古い、天体力学の問題でも、太陽と地球のような二体問題ならば楕円軌道の周期運動解があるのだが、もうひとつ惑星がくわわった三体問題、とくに1900年ごろにポアンカレ(Poincaré)が扱った問題も、カオスだということができる。Lorenzが扱った問題との重要なちがいは、天体力学の三体問題は力学だけで散逸がなく(熱力学の意味で)可逆だが、Lorenz (1963)の問題は散逸と強制のある(熱力学の意味で不可逆な)システムを扱っていることである (この論点をわたしは蔵本(2007)の本で学んだ)。

文献

- 4 -
さて、わたしは、地球の大気のふるまいを近似するものとしてつくられた、大気大循環モデル(あるいは数値天気予報モデル)などという計算機上のシステムを知っている。その中では、空間分布をもつ気象変数が時間とともに変化する。ふつう、空間構造は離散化する。典型的には、東西、南北、上下の3次元の升に分ける。たとえば変数の種類が10、升の数が十万とすれば、百万元の連立常微分方程式のような形になる。力学のほうでいう「自由度」という用語を使えば、「自由度 百万」の系なのだ。(実際の計算プログラムではさらに時間のほうも微分を差分におきかえて近似計算するのだが。)

ここではひとまず形式的な要素の数を自由度としてしまったが、実際には、複数の要素が常にいっしょに変化していればあわせて考えてよく、実質的な自由度はそれよりも少なくなる。しかし、桁ちがいには減らない。

そういう「自由度 百万」の系を見慣れていると、Lorenz (1963)が扱った「自由度 3」の系をさして「複雑だ」などと言う用語づかいには、とてもなじめない。

おそらく「複雑系論」の人たちは、系の構成は単純であっても、ふるまいが複雑であれば、「複雑系」だと言うのだろう。彼らがそういうことには反対しない。しかし、もしそうならば、わたしは「複雑系論」の専門集団のメンバーにはなれそうもない。

- 4X -
気象学者のうちには、Lorenz (1963)のような自由度の小さい(しかしカオス的な)システムが、地球の大気と似た特徴をもつ、と考える人もいる。しかし、自由度の大きいシステムのふるまいは(カオス的であることは同様でも) 自由度の小さいシステムとはだいぶちがうと考える人もいる。

自由度の大きいシステムのふるまいは、統計力学の発想でとらえるべきだという考えもある。ただし、統計力学のうちでも典型的なものはマクロの熱力学をミクロの立場から説明するようなものだと思うが、そこで出てくるミクロの系の自由度はアヴォガドロ数と同程度(10の23乗)以上の けた のものになるだろう。自由度が百万くらいの系のふるまいはそれともちがい、そこでの統計力学的方法はまた別に考える必要があるのかもしれない。(いわゆる経済物理学の人たちはそれをやっているのだと思うが、わたしは追いかけていない。)

- 5 -
カオスが生じる要因として「非線形性」が重要なことは確かだ。「カオスが生じるシステムは非線形系である」(「カオス的システムの集合は非線形系の集合に含まれる」)とは言えるだろう。(ここで「カオス的システム」は「カオスが生じるシステム」と同じことだと思ってほしい。)

「線形」ということばも、語源を離れて、(応用)数学の慣用をふまえて理解する必要があることばだ。これは点・線・面の線ではなくて、直線と関係がある。入力と出力の量の関係を示すグラフが直線になると考えればよい。線形システムでは、おおざっぱに言って、出力が入力に比例するのだ。数量を入れるにはもう少しきちんと表現する必要がある。表現は文脈をふまえて考える必要があるが、たとえば「出力変数のその標準値からの偏差が、入力変数のその標準値からの偏差に比例する」のようにすればよいことがある。

非線形」は線形の否定で、出力と入力の関係はさまざまな形がありうる。

入力のわずかなちがいが、出力の大きなちがいをもたらすとしても、どの入力も同じ倍率で拡大するのならば、線形だ。

しかし、「ふだんは、入力のわずかなちがいは、出力にもわずかなちがいをもたらすのだが、ときおり、入力のわずかなちがいが、出力の大きなちがいをもたらす」ということが起こるシステムは、非線形にちがいない (非線形ならば必ずそうなるわけではないが)。

- 6 -
内田さんが「複雑系」を持ち出して言いたかったことは、選挙制度が、民意という入力から、政党別議員数という出力への変換としてみたとき、非線形だ、ということなのだと、わたしは推測する。それならばそのような用語を使ってくれればよかった。

ただし、そういう形で選挙制度を論じる人の多くは、政党別議員数が民意(仮に数量化できているとして)に比例するのが望ましいと考え、今の制度が非線形ならば、線形に近づくように制度を変えるべきだと主張するだろう。

驚いたことに(驚いたのはわたしである)、内田さんの議論はそうでない。内田さんは、政権交代を可能にするために、民意(内田さんの用語ではないがこう表現しておく)のわずかな差が議員数の大きな差をもたらすのが望ましいと考えている。そして、小選挙区制は、そのためにわざと導入されたしくみだ、と内田さんは理解している。ところが、結果をみると、同じ党派の圧勝が続いているので、今の選挙制度は意図された効果をはたしていない、というのだ。

わたしは、選挙制度が、民意のわずかな差を拡大するものであるべきだとは思わない。しかし、議会が持つべきなんらかの望ましい特徴を実現するために、民意から議院構成への変換をわざと非線形にすることはありうると思っている。ただしそれを単純に「非線形」と(まして「複雑系」などと)表現するのは趣旨をわかりにくくする。どのような変換かを明示して議論するべきだと思う。

いわゆる「バタフライ効果」の話題は、非線形変換が連鎖することによって予想困難な帰結がもたらされることがある、という教訓につなげるほうがもっともだと思う。

- 7 -
たぶん選挙制度の場合にはあてはまらないのだが、「カオス」をわざと入れることはありうる。それは、対称性・一様性(この両概念は同じではないがここではその重なるところに注目)がよすぎる状況で、それを破りたい場合だ。

たとえば、(Lorenzモデルではなく、もともとの)ベナール対流の話で、流体の上下の壁の温度がそれぞれ完全に一様だと、いくら温度差を大きくしても、上昇・下降流を起こすきっかけがどこにもないので、対流が起こらない、ということが理論的にはありうる。現実には壁にもわずかな不均一があるので、それをきっかけに上昇・下降流ができて対流が始まる。

ひとりで迷って、どうにも決められないときにサイコロをふるのは、ふつう、ランダムな現象に頼ると認識されるが、むしろカオスを発生させてその結果を使っていると言ったほうがよいかもしれない。

会議でものごとを決めたい場合でも、意見が全然出てこない状況、あるいは一つ出てくれば全員がそれに賛同することになりやすい集団では、まず、カオスなりランダムなりの入力を与えて「ゆさぶって」やる必要があるかもしれない。

- 8 -
選挙制度についてはわたしはしろうとだが、内田さんが提起した問題について、個人として、次のように考えている。

小選挙区制が、(「民意に比例」よりも) 大政党に有利に偏りやすいことは確かだと思う。それが二大政党になることもあるし、第二勢力が結集に失敗すると一大政党優位になることもある。どちらになるかは民意の内わけによるので、選挙制度だけで誘導できるものではないだろう。

小選挙区制の導入によって(その後10年くらいかかって)、自民党の内容が、中選挙区制時代の自民党とちがうものになっていると思う。派閥間の競争から、党中央をにぎった者の優位に変わった、と言えると思う。派閥はそれぞれの支持者への利益誘導をもたらすので悪いものと考えられた。しかし今からふりかえると党内の意見の多様性がなくなるのもよくない。かつての中選挙区制そのものにもどるのではないが、ややそれに近づくような制度変更がよいのかもしれないと思う。

選挙制度よりも重要な問題は、議会での党議拘束だと思う。これが強すぎると、選挙で政党間の力関係が決まれば、議会での議論は形式にすぎず、議員の人数だけで立法が決まることになる。アメリカ合衆国などと比べて考えると、いまの日本はこれが強すぎるのだと思う。選挙のときに明確に公約した以外の案件については、議員がそれぞれ考えて議決にかかわれるようにするべきだと思う。そうすれば、選挙のとき以外の、それぞれの案件に関心のある有権者から議員への働きかけが活発になるだろう。(それが偏る心配もあるが、アメリカなどでの議論を参考に対策を考えることはできると思う。)

党議拘束が強い議会を前提とすれば、民意をすなおに反映する比例代表制が望ましい、と言えると思う。しかし、わたしは、党議拘束がゆるく、無所属議員も活躍できるような議会が望ましいと思うので、全部比例代表にすることには賛成しない。思いつくうちでは、(過去の中選挙区そのものの復活ではないとことわったうえで) 中選挙区型の制度がよいと思っている。

- 9 -
内田さんについては、これの1週間前に、別の件で話題になっていた。

2017年11月3日に内田さんの個人ブログに出てBLOGOSにも転載された[大学教育は生き延びられるのか?]という記事だった。2016年5月19日の講演を文字おこししたものだそうだ。

これについては、ふだん内田さんの言論をほめない人からも、これは読むべきだ、という発言が見られた。

わたしはまだきちんと読んでいないのだが、よい評判の背景には、内田さんが、(哲学の専門家としてではないが)、大学教員を長くつとめ、いわゆる大学改革にもかかわってきて、今は離れた、という立場で書いているので、当事者性と客観性が(どちらも不徹底だが)組み合わされた、ある意味での専門性があるのだと思う。

悪い評判もあった。そのうち、内容でなく態度への批判としては、「大学改革」の結果として内田さんよりも若い世代が苦しんでいるのに、内田さん(たち)は逃げ切っていて、贖罪の態度が見られない、というものがあった。若い世代の不満はもっともだと思うが、罪の意識を感じて沈黙したり謝罪ばかりを述べるようになるよりも、自己弁護まじりであっても経験を語ってくれたほうが、次の世代のためにもなるのではないか、とも思う。(内田さんよりは若いものの引退世代にはいりかけているわたしが言っても弱いが。)