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共約不可能性、通約不可能性 (incommensurability)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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このブログで、わたしが、「バベルの塔」のたとえを使いながら、次のような主張をたびたびしている。

「学術 (「科学」と言ってもよいが理科系に限らない)のそれぞれの専門家の集団は専門用語体系を持っていて、専門家のいうことを理解するには、その集団の用語体系を理解する必要がある。これからの世の中では、複数の専門集団の用語体系を理解できる人をふやしていくことが必要だ。」

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こういう議論をするとき、「共約不可能性」または「通約不可能性」、英語では incommensurability ということばにたびたび出会う。

これは、科学にかんする学問(科学史・科学哲学)の用語で、1960年ごろ、KuhnやFeyerabendが使い始めた[注]。使う人によって、あるいは同じ人でも文脈によって、くわしい意味はちがうようだ。

  • [注] わたしは大学2年のとき(1977年)、村上陽一郎さん(当時、助教授)の講義で、Kuhn, Feyerabendなど(そのほかの名まえも出てきたと思う)が「共約不可能性」というキーワードを使ってした議論に出会った。(科学史・科学哲学専攻予定の2年生向け科目で、理学部進学予定のわたしは他学部科目聴講手続きをして履修したと記憶している。) その内容はあまりよく理解できなかったのだが、1979年に出た『新しい科学論』という本には講義と同じ内容がわりあいわかりやすく書かれていた。

「共約不可能」(または「通約不可能」)という語を使ってしまうと、話し手が意図した意味が聞き手に必ずしも正しく伝わらないおそれがあるので、わたしは、この用語を、自分からは積極的には使わず、ほかの表現を使うようにこころがけている。

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もし使うならば、Kuhnの科学論の論旨にあわせるのが適切だと思っている。

多くの人はこの用語の出典として、原著1962年(日本語版1970年)の『科学革命の構造』をあげる。わたしはこの本も読んだはずなのだが、よくわからなかった(ただし、わかりにくい本であるという評判も知った)。2000年に、当時新刊で出たKuhnの遺稿集『The Road since Structure』と、原著1977年(日本語版1991年)の『本質的緊張』を読んだ。また野家(1998)の解説も読んだ。そのようにして理解した、わたしがKuhnの考え[注]だと思ったものにもとづいて、わたしはこの用語を使う。

  • [注] これは1980年代ごろのKuhnの考えであり、わたしの[Kuhn (2000)の読書ノート 補論1]では「Kuhn4」と表現した。『科学革命の構造』を書いた当時の考えとはいくらかちがっている可能性もある。

2001年、岩波書店の雑誌『科学』が読者からの投稿を募集した。そのうち早くのったものを読んだら、わたしから見て、Kuhnの議論を誤解していると思われるものが複数あった。わたしは、科学の専門分化の傾向を逆転させようと論じる投稿をしようと思っていたのだが、その根拠としてKuhnの議論を使おうとしていた。予定を変えて、Kuhnの議論に関する議論を書いたら、「読者からの手紙」としてのせてくれた(増田, 2001)。【専門分化の議論は宿題のまま残っている。】 そのうち「通約不可能」の概念にかかわるところを引用しておく。(注の書きかたは変更した。)

クーンが有名にした「通約不可能」という語は、もともとユークリッドの数学で、二つの長さをいずれも整数で表わす尺度がないこと、今の学校数学用語でいえば、比が無理数になることを意味する。クーンの場合の意味は、用語体系がくいちがうことである。ある言語と別の言語の間には「森羅万象の割り方」の違いがある(*)。たとえば,(科学用語でなく日常の)日本語では「水」と「湯」と区別して示されるものが、英語ではどちらも "water" で示される。同様に、クーンが科学革命と呼ぶ事態の前後で、科学の言語は違う。クーンの通約不可能は、比較不可能のことではない。ユークリッドの二つの長さは、逐次近似の努力をすれば比較できた。新旧の科学は、第2言語を学んで使い分げる努力をすれば比較できるのだ(**)。

  • (*) グロータース (1967) の31-32ページ参照。なお、そこにあげられている参考文献は、Nida (1964)。Kuhn (2000)も第6章でNidaの(これとは別の)評論を参照している。
  • (**) Kuhn (2000)。

わたしのウェブページではこれと同文ではないが内容がかさなる記事を、[Kuhn (2000)の読書ノート 本論]として置いている。

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「無理数」という用語は、多くの人がたぶん中学くらいの数学で学ぶ用語ではあるが、数学者はあまり使わないと思う。(それで「学校数学用語」と表現した。) わたしは子どものころ、数学の読みもので知った。著者はおぼえていないが、矢野健太郎さんだったかもしれない。

まず、「有理数」、英語でいえば rational number ということばができた。この「rational」は「合理的」ではなく、整数どうしの「ratio」つまり「比」あるいは分数で表現できる、という意味なのだそうだ。その否定である「irrational」あるいは「無理」も、「非合理的」でも日本語の日常用語でいう「無理」の意味でもない。同じ用語の日常的な使いかたから意味を類推してはいけない専門用語の例なのだ。もっとも、Pytagorasをはじめとする古代ギリシャ世界の数学をも扱った哲学者たちにとって、そのような性質をもつ数の存在は世界観に困難をもたらすものだったそうなので、それを反映した文脈では他の文脈の「無理」との連想を働かせてもよいのかもしれない。

数量の概念としては、ものの個数や順番などの離散量(およびそれを表現できる数である整数)と、線の長さや図形の面積で代表される連続量が、それぞれ発達してきた[注]。両者に共通するところは確かにある。しかし、ギャップもあることがわかってきた。任意の長さと長さの比が、整数と整数のわりざんによる分数で表現できるかと思ったら、1辺1の正方形の対角線、直径1の円の円周などが表現できない。英語読み「ユークリッド」で知られるEukleidesは、連続量を「数」でなく長さなどの「比」として議論したそうだ。そののち、連続量を表現できる数である「実数」の概念が確立し、実数のうちで分数で表現できる数つまり「有理数」は小さな部分であることがわかってきた。

  • [注] これは数量の2つの典型的類型を示すものだが、すべての数量をこの2つに分類することを意図してはいない。たとえば、有理数を離散量と連続量のどちらかに含めようとするのは不毛な議論だと思う。

たとえば、正方形の辺の長さと、対角線の長さは、どんな単位長さを持ってきても、両方を整数であらわすことができない、という関係にある。これが、(英語でいえば) incommensurable ということなのだ。(他方、たとえば、正六角形の辺の長さと長い対角線の長さならば、両方を整数であらわすことが可能だから、commensurable なのだ。) 漢訳に出てくる「共約」または「通約」というのは、同じ分母をもつ分数であらわすことをさすのだろう。(今の日本の学校数学用語の「約分」や「通分」と同じ根をもつものだと思う。)

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村上先生の講義のなかで、「共約不可能」という語が出てきたときに、「共役」ではない、という注意があった、とわたしは記憶している。

この記事にとっては余談だが、「共役」(きょうやく)は、数学やそれを使った科学のあちこちに出てくることばで、英語の conjugate に対応する。意味は細分された専門領域によってもちがうと思うが、ひとつの典型である「共役複素数」は、a + b i と a - b i のように、実数部が同じで、虚数部は絶対値が同じで符号が逆であるような、複素数の組をさす。(近代数学用語の歴史のうちでの)むかしは「共軛」と書かれて馬などの家畜が2頭で車をひくことによる比喩だったのが、日常の日本語に出てこない「軛」の字を避ける書きかえで「役」となったそうだ。(わたしは「共軛」を知るまえには「きょうえき」だと思っていた。もし、もともと「共役」という漢語があって、現代日本語の「役」(やく)に直結しない意味ならば、「えき」のほうがありがちな読みかただと思う。)

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「通約不可能」という日本語表現がいつから使われていたのか知らないが、わたしがそれをはっきり認識したのは2000年ごろだった。

「共約」は聞いてわかりにくいし、算数用語との連想もしにくいが、「通約」のほうが、算数用語の「通分」「約分」との連想ができる。そこで、わたしは使うならば「通約」のほうを使うことに切りかえた。

もちろん、「つうやく」と聞けば「通訳」がさきにおもいうかぶ、という問題がある。「通訳不可能」とされると、意味がちがってしまうので、要注意だ。

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専門家集団は、それぞれ固有の用語体系(むしろ用語の背後にある概念の体系)を共有している。別々の専門の集団のあいだでは「ことばが通じる」とはかぎらない。同じ専門でも、旧世代と新世代でことばがくいちがうことがある。これがKuhn流にいう「科学革命」だ。

「通約不可能」は「ことばが通じない」ことだといっても、ことばによる意思疎通が不可能だということではない。(だから「通訳不可能」と受けとめられてしまうと、とてもまずい。) 用語の背後にある概念体系がちがうので、1対1の単語のおきかえでは翻訳にならないのだが、両方の集団の概念体系を学んだ人が、必要に応じて長い説明を補うことによって、翻訳することはできるのだ。

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Kuhnの議論を離れて言えば、通約可能性は、「互換性」に近い概念だ。英語でいう interoperability のほうがもっと近いかもしれない。

わたしはそういうことを自分のウェブサイトのどこかに書いた覚えがあったが、どこか忘れていた。検索してみたら、[Andersenほか(2006)の読書ノート]だった。その本と直接関係ないのだが、その本を読みながら思いあたったことだったようだ。関係するところだけ再録しておく。

(Kuhnが使った用語の意味の明確化という意図を別にすれば) 「通約可能」はinteroperableと言いかえたほうがわかりやすいと思った。 しかし、これは日本語にしにくいし(「共通操作可能」だろうか?)、 これの否定語はもっと長くなるので使いにくい。 また、わたしはinteroperableということばをこのごろは肯定的に使っているのだが、 最初に出会ったのが 「日本の自衛隊の装備をアメリカ軍とどこまで統一するか」という議論でだったので、 そのようなややこしい問題を連想してしまうこともある。

けっきょく、「通約可能」よりもうまい表現には至っていない。

文献

  • Hanne Andersen, Peter Barker & Xiang Chen, 2006: The Cognitive Structure of Scientific Revolutions. New York: Cambridge University Press. [読書ノート]
  • W. A. グロータース [Grootaers] 著、柴田 武 訳, 1967: 誤訳 (三省堂新書)。三省堂。[最初から日本語で出版された本。]
  • Thomas S. Kuhn, 1962: The Structure of Scientific Revolution. University of Chicago Press.
    • [同、日本語版] トーマス・クーン 著, 中山 茂 訳 (1971): 科学革命の構造。みすず書房。
  • Thomas S. Kuhn, 1977: Essential Tension. University of Chicago Press.
    • [同、日本語版] トーマス・クーン 著, 安孫子 誠也, 佐野 正博 訳 (1991): 科学革命における本質的緊張。みすず書房。[わたしは日本語版を読んだ。]
  • Thomas S. Kuhn 著, James Conant, John Haugeland 編, 2000: The Road since Structure -- Philosophical Essays, 1970 - 1993, with an Autobiographical Interview. University of Chicago Press. [読書ノート]
    • [同、日本語版] トマス S. クーン 著, 佐々木 力 訳 (2008): 構造以来の道。みすず書房。[わたしは英語版を読んだ。]
  • 増田 耕一, 2001: クーンに積極的評価を。科学, 71: 1023-1024.
  • 村上 陽一郎, 1978: 新しい科学論 -- 「事実」は理論をたおせるか (ブルーバックス 373)。講談社。
  • 野家 啓一, 1998: クーン -- パラダイム (現代思想の冒険者たち 24)。講談社。
    • [同、文庫版] (2008): パラダイムとは何か -- クーンの科学史革命 (講談社学術文庫 1879)。講談社。
  • E. A. Nida, 1964: Toward a Science of Translating. Leiden [グロータース (1967)の参考文献。わたしは直接見ていない。]