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「宇宙開発」についての意見

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「宇宙」ということばは、光などで認識できるかぎりの世界のすべてをさすこともあるが、地球のまわりの空間をさすこともある。「宇宙開発」という用語は(わたしが自発的に使うことばではないが)、地球のまわりの空間の利用と、それにかかわる技術の開発をさすのだと思う。

今後の「宇宙開発」をどのように進めたらよいか、という議論を見かける。とくに、日本の国の予算の重点をどうしたらよいか、という問題のたてかたになることが多い。

わたしの意見は、国の宇宙関連事業としては、人工衛星の社会インフラストラクチャー (以下しぶしぶ「インフラ」と略すこともある。[2013-03-24の記事]参照)としての利用およびそれにつながる基礎科学・技術の研究を重点とするべきだ、というものだ。それは無人で飛ばすことを想定している。有人宇宙飛行は、できればあったほうがよいと思うが、社会インフラと基礎研究の無人事業をじゃましないように、限定された予算規模で進めるべきだと思う。有人事業は日本一国や日本の主導ではおそらく不可能であり、多国間の共同事業にする必要があり、したがってなかなか進まないこともあるかもしれないが、そうするしかないと思う。

わたしは、人工衛星による地球観測の利用にかかわってきた者なので、わたしの発言には、その立場の我田引水的なところがあるだろう。しかしそれは、その領域の重要性を述べる責任を感じているということでもある。

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衛星による地球観測が社会インフラになっていることは、まず防災に関してみることができる。「ひまわり」などの気象衛星は、台風などの気象災害になりうる現象について、画像によって事前の警戒情報を与えるとともに、数値天気予報に雲などに関する定量的情報を提供して予報精度を高めている。また火山噴火の噴煙の広がりのモニタリングにも役立っている。空間分解能の高い地球観測衛星は、地震災害に対して、(直接的な地震予知にはならないものの) もし地震が起きた場合に土砂崩れなどの危険が予想される箇所を知ることや、地震の起きた後に災害の状況を把握したり地震のメカニズムを理解したりするのに役立っている。

地球環境のモニタリングも、衛星による地球観測の社会インフラ機能と考えられる。これについては [2016-10-08「地球温暖化と人工衛星とのかかわり」の記事]で述べた。

地球観測のうち、空間分解能の高いものは、商用とされて、代金を払う人にだけデータが提供されるような形になることもある。また、国家機密になることもある (それも社会インフラの内とも言えるが、それを使う職務にある少数の人以外には無縁になる)。しかし、空間分解能の比較的低いものは、グローバル公共財ととらえるのが適切だ。費用を利用者に負担させるのはむずかしく、公共部門で支える必要がある。そして、技術が進むにつれて、従来は商用や機密であったレベルのデータが、公共財の領域に移っていくだろう。

衛星による地球上での位置決め、つまり「測位」も、社会インフラとしての人工衛星の重要な機能になっている ([2016-11-25の記事]参照)。測位は航行支援のほか地球観測にも使われている。

通信も、社会インフラとしての人工衛星の重要な機能だ。このうちには商用の通信もあり、それは民間企業にまかせられるかもしれない。しかし、公共目的の通信もあるので、今後も国などの公共部門がかかわる必要があるだろう。

公共部門の「宇宙」にかかわる事業としては、まずこのような社会インフラを長期継続して頑健に(予定された日時の利用可能性が確実になるように)維持することに重点を置くべきだと思う。

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衛星による地球観測の技術は完成されたものではなく、研究開発はもっともっと必要だ。しかし、社会インフラとしての地球観測には持続性が必要だ。両者の要求はだいぶちがい、同じ経営体の中で進めることはむずかしいかもしれない。しかし、両者はきれいに切り離せるものではなく、連携が必要だ。

アメリカの気象衛星についてみると、いつもうまくいっているわけではないのだが、NASAが新技術の実験をし、NOAAがそのうちから機能を選択して長期運用するという役割分担があるように見える。

日本でも、気象衛星については、気象庁が運用の主体になれる(今は業務の一部を民間委託しているが発注主は気象庁である)。

しかし、その他の社会インフラ型の地球観測衛星の運用に適した主体がしっかり決められていない。「研究開発」をかかげるJAXAとは別に、長期運用の主体となる組織をつくるべきだと思う。(「地球観測機構」のようなものをつくることも考えられるし、主題別に、たとえば温室効果気体をはかる「GOSAT=いぶき」の運用組織を環境省の下につくることも考えられる。) JAXAが研究開発だけでなく長期運用も引き受ける形もありうるが、それならばJAXAの設置を決めた法律を改正してその役割を明確に書きこむ必要があると思う。

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地球観測といちおう別に、「宇宙科学」と総称される活動がある。人工衛星にのせた望遠鏡による天文観測、惑星探査(着陸や周回を含む)、惑星間空間の探査などを含む。

この領域の活動は、直接の社会的有用性は乏しいが、科学への貢献は大きく、その知見が多くの人々の世界観に影響することもありうる。

この領域は、国の政策のうちで、もし「科学」と「技術」を明確に区別した場合に、「科学」への支出のうちで相対的な重点のひとつとして予算配分をしてよいだろうと思う。しかし「技術」に向けた予算を配分するべきではないと思う。(技術開発の要素はあるのだが、ここではそれは「科学」に属する事業の下請けとしておこなわれるのだ。)

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将来有用な技術になるかもしれないが、ならないかもしれない、技術の「たね」としての科学研究もあると思う。

その例として思いあたるのは、宇宙太陽光利用だ。これが使える技術になるかどうかはまだわからないが、なる可能性はあると思う。しかし、環境影響の心配があるので実用にならない可能性もある。また、現実世界の中で公正な利用体制を組めるかというグローバル倫理・政治の問題もある。今の段階では、技術開発よりもむしろ、もし実用化したら起こりうる問題点のアセスメントのほうに公的資源投入が必要だと思う。

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日本は、2・3節で述べた地球観測(のうちでデータが世界に公開されるもの)と、4節で述べた宇宙科学について、世界から期待されていると思う。衛星やセンサーの技術力はあり、それを利用する科学の水準も高いからだ。

しかし、日本の現状は、予算の継続性があやうい。(政権交代があればもちろんだし、同じ政党の政権でも聖域なき支出カットが正義とされることがある。)

また、日本だけでは、研究開発プロジェクトにかかわりうる科学者や技術専門家の数が少ない。研究開発プロジェクトの国際化が必要だと思う。

国際化については、いろいろなレベルが考えられる。日本の国としての取り組みの場合の重要な分かれ道は、プロジェクト運営上の議論をおもに英語でやるか日本語でやるかだと思う。

  • 1. 多国間機関事業 (たとえば「アジア宇宙機関」をつくってそこの事業) にする。
  • 2. 日本(政府や国立法人)が事業主体となるが、実行メンバーは原則として国籍を問わず世界から人選し(実際には軍事とのdual useがらみの問題があるので国籍や本拠地国による制約はあると思うが)、プロジェクト運営はすべて英語でやる。
  • 3. 日本が事業主体となり、メンバーはまず日本の機関所属の人で構成したうえで、世界からの人選を加える。プロジェクト運営の言語は、部分的に日本語でできる部分もあるが、英語も必要となる。
  • 4. プロジェクト運営の言語を日本語とし、メンバーを日本語で議論可能な人でかためる。非日本語話者のかかわりかたは、プロダクトを利用する、既存技術を提供する、などに限られる。
  • 5. 日本政府とその請け負い機関に属する日本人だけで実施する(国家機密がらみの場合)。

JAXA地球観測衛星プロジェクトの現状は3が多いと思う。しかし、科学的知見を得るためにも、世界の社会的要請にこたえるためにも、今後は2をふやす必要があるのではないかと思う。

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有人宇宙飛行の能力をもつことには、いくつかの意義があると思う。

ひとつは、人類が地球を離れて生きる可能性を確保することだ。これがあるとないとでは、ヒトという種の将来が大きくちがってくるだろう。

ただし、ロケットなどに使える資源に限りがあるから、いま生きている人類あるいはその子孫のうちの多数が宇宙に出ていくわけにいかない。(わたしはこのことを富塚(1982)の本で認識させられた。この本自体は自然科学全般の入門書だが、富塚氏は動力機械の専門家である。) もし将来宇宙進出に成功するとしても、それはたまたま選ばれた少数の人の子孫が地球の外で生きていけるということだ。公共部門の予算のこの主題への配分を考えるうえではそのことを考えておく必要があるだろう。

もうひとつは、もっと短期的に、宇宙空間に置かれた設備を人が修理できることだ。無人の遠隔操作ではできない作業ができるかもしれない。ただし、それは、修理対象の設備と、人がのれる宇宙船との少なくともどちらかを動かして、同じところに持ってこられることが前提だ。それが可能な技術があれば、修理対象の設備を無人で地上にもどす技術もでき、そのほうがよいのではないか、とも考えられる。

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地球観測関係者の利害もからんだ発言になるが、わたしは、有人宇宙飛行は、日本の国が予算をつけてやる事業として優先順位が高いとは思わない。

有人宇宙飛行プロジェクトは、研究開発としての単価が高く、しかも安全性などの観点からの大幅な計画見なおしが求められることが多く、大きくくくれば同じ予算をとりあっている地球観測などの無人衛星事業に対しては、年次計画を乱す、じゃまな存在なのだ。

(毛利さんがスペースシャトルに乗りこんだとき実施されたSRTMでは、世界の地形標高データが得られ、地球観測に役立った。しかし毛利さんはまさに「手」として使われただけで論文の共著者にもなっていない。このデータ取得はうまく設計すれば無人でもできたはずだ。このような事業が有人宇宙飛行の正当化になるとは思えない。)

人類が有人宇宙飛行をやろうとし続けるかぎりは、日本で育った人がそれに参加できる道はあったほうがよいと思う。しかし日本は一国あるいは主な担当国として支えるには残念ながら貧しい。多国間事業を構成する一員としての参加が望ましいと思う。

今までのようにアメリカ合衆国が主導する国際宇宙ステーションの事業があり、JAXAがそれに参加できるのならば、それを続けてもよいと思う。しかしアメリカのTrump政権が一国主義あるいは南北アメリカセクター主義に走って日本を排除するならば、別の道を考えなくてはいけない。

地球科学分野では、世界共通の課題に対して、アメリカやヨーロッパに比べてアジアの貢献がもっとほしいといわれる。そういう批判の文脈では日本であろうが中国であろうがいっしょくたに見られ、共同で対処することを期待されてしまう。しかし現実には、日本と中国とインドなどが共同で対応する体制は、学者どうしの自主的な連携しかなく、予算がつくような協力体制は(世界規模の機関への参加はあるがアジア規模のものは)乏しい。

わたしは、今後の有人宇宙飛行は、地球のうちのアジアセクターの宇宙事業として、中国、インド、ASEAN諸国などとともにやるべきだと思う。(イラン、UAEカザフスタンなどまで入れるのが筋だと思うが、実際にどこまで声をかけるかはよく考えないといけないと思う。) 多くの国の宇宙事業には軍事がらみのところがあるので、国際化は簡単にはできないと思う。しかし、どの国も、世界に貢献することを誇りたい面もあるようだ。そこで、こちらから各国に、世界公共財としての宇宙科学技術への貢献の部分だけでもともにやっていこうと呼びかけるべきだと思うのだ。それの実現を政治が許さないならば、かけ声だけで実質進まない状態になっても、やむをえないと思う。

文献

  • 富塚 清, 1982: 生活のなかの科学技術山海堂