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報道は「国民的関心事」に集中しすぎず多様性を (1): 政治家の不正疑惑の報道に思う

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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わたしはかねがね、「日本のマスメディアは、それ自身が「国民的関心事」と考えたことに横並びで集中しすぎる」傾向があると思い。報道の主題選択はもっと多様性があるべきだと考えている。(「国民的」はわたし自身の意見を述べる際には避けたいことばなのだが、マスメディア(たとえばテレビ局の番組編成をする人)の発想をわたしが推測表現するという文脈では適当だろうと思って使った。)

たとえば、2016年8月のオリンピック開催中、どのテレビ局も(放送権の制約のせいもあるのだと思うが)オリンピックでの日本選手の動きにばかり時間をさいていたと思う。視聴者のうちには、世界のニュースのうちでも別の話題、たとえば戦争や災害のあったところの最近の動きを知りたい人もいる。オリンピックに関心がある人のうちでも、どこの国であろうと強い(勝つ)選手の競技を見たい人もいるだろうし、ふだんなじみのない国の選手を見たい人もいるだろう。複数のテレビ局があるのだからそれぞれがちがった態度で番組をつくればかなり多様な需要にこたえられると思うのだが、日本の現状は画一的すぎると思ったのだ。

また、台風や地震津波の災害の報道についても感じた。もちろん、津波や台風が来るかもしれないときに警戒をよびかけることは必要だし、災害がおきた後は救難を必要とする人以外にも交通事情の変化などを知る必要がある人が多いから、災害の報道に重点がおかれるのはもっともだ。しかし、通常の番組を休んでまでして、1時間くらいでは変化が見られない現地の風景画像をえんえんと見せたり、町役場の人に電話をかけて「今のところ新たな被害の通報はありません」という返事をもらうことをくりかえしたりしているのは、重点的報道の実質にもなっておらず、むだが多いと思う。少なくとも定時のニュースの時間には、注目している災害の状況を短く要約して伝えたうえで、それ以外の世界のニュースをしっかり報道してほしいと思うのだ。【災害報道について考えていることは(2)の記事にしたいと思っているが、いつできるかまだわからない。】

このような傾向になる原因は単純ではないと思うが、次のような要因があると推測している。

  • 日本のテレビでは、報道番組ではないがニュースを題材とするニュースショーやバラエティ番組が多く、その製作者が、情報内容よりも、視聴率をとれることを優先する傾向があること。
  • 同業者間の競争意識があって、重要なものを落とすのを恐れること。また、重要課題に時間をかけるのがよいとされること。ただし、何が重要かの判断の際に「同業者が重視している」ことを重視するので、同業者の判断が何かに傾くとその傾向が強めあってしまうことが多い。

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最近、日本の政治家が不正行為をした疑いに関する報道が話題になった。

仮に「不正行為」と表現したことがらの意味には、直接に法律に違反することのほかに、(実際に規定された法律には違反しないかもしれないが) 政治家や行政官の立場でとるべき(公平や公益などの)原則に反することが含まれる。(申しわけないがこれ以上うまく述べられない。)

このブログ記事では、この件に現われる政治家やその他の人々の行為を論評することは見送り、報道の態度だけを話題にする。

わたしは、この政治家のこの不正行為の疑いは、報道されるべき問題だと思う。しかし、メディアの報道全体の中で、あまりに大きな重みを置くべきでないとも思う。

2月20日ごろ、この件をいくつかのメディアが扱いはじめたが、扱わないメディアもあった。扱わないメディアに対して扱ってほしいと要望するのはよいと思った。しかし扱わないことを非難することにはわたしは賛同できなかった。非難のうちには、扱わないメディアは問題の政治家をかばっているにちがいないと決めつけたものもあった。実際にかばっていた可能性はある。しかし扱わないこと以外にかばっている明確な証拠がないならば、決めつけた非難は逆効果だろうと思う。日本の政治に限っても重大な課題はたくさんあるので、メディアにはこの件を扱わないところもあるというぐらいの多様性があってよいと思う。

その後、国会で野党の質問でとりあげられたからだと思うが、どの放送局も扱うようになった。3月3日ごろの状況を見たわたしの印象では、日本の政治の話題のうちでこの不正の疑いの件の重みが大きすぎるような気がする。日本のメディアでは、有名人の行動の話題が多くなりがちだ。それは芸能人やスポーツ選手のことが多いのだが政治家も同列に扱われているようだ。政治家の不正行為の疑いをそのように扱ったのでは、政策を考える機会に結びつきにくい。

政治家の不正行為の疑いよりも政策のほうをもっと報道する局がもっとあってほしい。

今ならば、組織的犯罪処罰法改正案、いわゆる「共謀罪」の件は、意見が分かれる政策課題だから、複数のメディアがそれぞれとりあげてほしい。(わたしは、この件で必要なのは賛成反対の言い合いではなく内容に立ち入った議論だと思う。国境を越える犯罪組織の資金源を絶つために、国内で暴力行為の実行に至る前の準備段階でとりしまることは必要なのかもしれない。しかし、とりしまり可能な容疑の範囲を広げると、市民に対して国家権力が強くなりすぎる。法律制定の目的に即して、逮捕や起訴ができる要件をきちんと決めることが必要だ。)

また、周辺の国や条約を結んでいる国との外交の課題もある。

来年度予算は衆議院で可決されたからもはや争点ではないかもしれないが、実際の効果は今後の運用しだいの部分もあるので、どう決まったのかを多くの国民が知ることができるようにしてほしい。

メディアが政治家の不正行為の疑いについて報道するかどうか、どのくらいの重みをおくかは、多様性があってよいと思うのだが、その内容・報道態度がどうでもよいというわけではない。報道に中立性を期待することと、政治権力への批判を期待することとは、矛盾しうるが、どちらにしても、与党政治家の主張だけを伝えるのはまずいだろう。

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政治家の不正行為への批判と、その政治家(が含まれる集団)の政策への批判とは、基本的に別の問題だ。

日本の世論は、公私混同にせよ、収賄にせよ、政治家が個人的利益を得るような不正行為については、その政策への賛成反対にかかわらず、きびしい。(形式的な公私混同があったが職務をよく果たした場合の評価はきびしすぎる気がする。)

他方、政治家が(自分の利益を得るのでなく)支持者の便宜をはかるような不正行為への批判は、その政治家の政策に反対する人から強く出る傾向があり、賛成する人からは出てきにくいようだ。

したがって、政治家の不正行為への批判と、政策への批判とが (さらに、便宜をはかってもらった支持者の行動や主張への批判も) 混ざってしまいやすいのだが、報道する人には、両者を混同しないで論じること(どうしても切り離せない場合はその事情を説明すること)を期待したい。

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政治家の不正行為の疑いが問題になった結果、政治家が失脚することもありうる。それが政治家の行動への正当なむくいならばよいのだが、いわば「世論が暴走して」しまうこともありうると思う。もし報道によって暴走が起きやすいならば、報道のありかたを考えなおす必要がある。

また、政治家が失脚したら、代わりにだれが力をもつかが問題だ。原理的には、政権をとる政党の交代、政党内で政策のちがうグループの登場、個人が入れかわるだけで政策の同じグループによる政治の継続、がありうる。それがどうなるかによって政策がちがってくる。リーダーを選ぶことと政策を選ぶことは相互に影響をおよぼす。だから、スキャンダルの進行中にも、政策に関する議論をしっかりやらなくてはいけない。メディアはその場を確保することを忘れないでほしい。