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反証可能性と地球温暖化

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【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

[おことわり] わたしのブログ記事には、専門家としての知識提供や提言と、しろうととしての感想や意見とが混在しています。

このひとつの記事は、わたしが気候の専門家として考えたことの記述ですが、専門家としての著作として発表できるほど磨かれていません。(たとえば、文献を確認すべきところを、記憶と直観に頼って書いているところがあります。)

別の記事は、同じ日に書いたものであっても、同じ立場で書かれているとは限りません。専門の話題がまざっていても、専門家としての権威はまったくない個人の感想を書くかもしれません。

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「地球温暖化は反証可能性がないから科学でない」という発言(発言Xとする)を見た。その発言者が独自に思いついたのではなく出典があるらしかったが、出典が何かはわからなかった。その文で「地球温暖化」がどういう意味で使われていたかもよくわからない。だから、発言Xの主の議論とかみあうかどうかわからないが、発言Xを見てわたしには思いあたることがいくつかある。

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発言Xは、「IPCCの言うことは科学の裏づけのない政治的主張だ」という議論につながっていたようだ。

わたしの考えでは、IPCCは科学と政治との界面(interface)としてつくられた組織であり、確かに政治が関与しているが、報告書の内容は科学的知見をまとめたものとみてよいと思う。(別記事「気候変動についての政策決定にとっての科学者の役割」[(1) 2013-12-21] [(2) 2017-02-10] 参照。)

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「反証可能性」は哲学者 Karl Popper (1902-1994)による理屈にちがいない。それが書いてある代表的な著書は『科学的発見の論理』だ。Popperはこれを科学と科学でないものとの線引き(境界設定、demarcation)の基準だとも考えた。

わたしは、1970年代の大学生のとき、(理科の基礎科目としてではなくて、課外活動で、社会思想とくに非マルクス社会主義の基礎を求めて) Popperの哲学についての解説やPopper自身の著書を読み、それに染まった。(そのことは[Bryan Magee (1997/2001)『哲学人(てつがくびと)』の読書ノート]に書いた)。ある時期は、反証可能性を自分の判断基準として使おうとした。しかし自然科学の専門に進んでみると、反証可能性は有用なときもあるものの、科学の境界設定基準とは思えなくなった。

今わたしは、科学と科学でないものとの線引きはひとつの基準ではいかないと思っている。また、科学の仕事をするうえで、仮説の反証可能性を考えることは有意義なことのひとつではあるが、常に有効だというわけではないと思う。わたしに限らずおそらく反証可能性の理屈を知る科学者や科学哲学者の多くがそう思っているだろう。

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反証可能性が有効なのは、科学を、自然界の普遍的法則を知ろうとするいとなみだと考える場合だ。

自然界の普遍的法則の候補となる仮説を考える。それは「すべてのAはBである」という(全称命題の)形をしている。そのような仮説を考える背景には、AでありしかもBであるものを多数見てきたという経験があるだろう。もしAであるものの数が有限でそれをすべて見ることができれば実証できるわけだが、法則の候補となる仮説は、将来も含めればAになりうるものが無限にあるようなものだろう。そのような仮説は、いくら多数でも有限回の経験では実証されない。経験からの帰納では仮説が法則であることは確定しないのだ。

しかし、1個でも「AであってBでない」事例を示せば、「すべてのAはBである」は反証され、法則の候補からはずれる。(実際には、すぐに反証を認めず、それはほんとうにAであるか、ほんとうにBでないと言えるかを検討することがしばらく続いて、しだいに認識が定まっていくだろうが。) はずれた仮説の否定は、確実な知識だと言えるだろう。このようにして科学的認識が進歩していくと考えることができる。

Popperがこの議論を組み立てた20世紀なかばに、フロイト流の精神分析の基礎理論とされるものや、マルクス流の社会の発展段階論などが、科学的だと自称していた。しかし、批判者が反証と考える例を提起しても、信奉者がそれが反証にならないような理屈を組み立ててしまうので、反証不可能な理屈になっていた。Popperはそれらを科学的でないと批判したのだった。Popperは「形而上学」にも価値を認めており、科学的でないものごとの価値が低いとは限らないのだが、科学的でないものを科学的だと称して使うことはまずいと主張したのだった。

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Popperの反証可能性の理屈は、論理学にもとづくものであり、統計的に仮説の確かさを評価することとは違うことを、Popperは何度も強調している。

しかし、Popperを離れて考えると、統計学でいう仮説検定や、統計学的基準による仮説間の選択も、広い意味で同様な発想に立っているのかもしれない。

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地球科学者の仕事は、いつも反証可能性を考えているわけではないと思う。

地球の歴史のうちの個別のできごとに関する事実を認識することも、地球科学の重要な仕事だと思う。過去の現場に行けるわけではないから、現在残っている証拠と、推論によるわけだ。推論を構成する文のうちには、「すべてのAは...」の形のものもあるかもしれないが、1個あるいは有限個の対象に限ったものもあるだろう。そこでも仮説の反証はあるかもしれないが、「すべての...」の場合のような決定的意義はない。

しかし、おそらく別の人になると思うが、地球の歴史に関する理論を考える学者もいる。理論家が「すべてのAはBである」という法則の候補を考えたのに対して、地史学者が認識した事実がAであってBでないならば、それは反証になる。そのような意味で、多数の人がかかわった地球科学の発達が、反証可能性に注目して解釈できることもあると思う。

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地球温暖化と反証可能性とのかかわりは、「地球温暖化」をどのような問題として定式化するかによってちがってくる。

「地球温暖化」を未来についての予言ととらえるならば、反証可能性は未来を待つことになる。

たとえば、普遍法則ではないが、「世界平均地表温度が、1961-1990年の平均値に比べて、2081-2110年の平均値は1.5℃以上高い」という予言を考えることができる。これは2110年が終われば反証可能である。(実際には、観測値から世界平均地表温度を推計するところでの不確かさがあるので、誤差の範囲で真とも偽とも言えない状況もありうるが。)

しかし、そのときが来るまでは、反証不可能と言える。(だから科学でないということはないが、この予言の真偽にこだわっても科学的認識は進まない。)

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「地球温暖化」を、「温度がすでに上昇しているか、その原因は何か」という「検出と原因特定」(D&A)の問題ととらえることもできる。それに答えるには、[2016-12-03の記事]で述べたように、複雑な推論が必要になる。その推論は基本的には統計的な仮説間の選択だと思う。ただし、その道具として気候モデル(大気海洋結合大循環モデル)が使われるので、そのモデルを構築する仕事を科学的だと思わない人には科学的だと思ってもらうことはむずかしいかもしれない。

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物理過程としての二酸化炭素と水蒸気の温室効果ならば、それを表現したほうが数値天気予報の精度がよいという形で、反証されていない(Popperの用語でcorroborated、「験証されている」)状態が積み重ねられている、と言えると思う。

二酸化炭素や水蒸気による放射吸収・射出過程には精密な定式化がある(Popper流に言えば暫定的に法則とみなされている仮説がある)。しかしそのままでは、吸収率・射出率の波長依存性が細かすぎて、ていねいに計算すると時間がかかりすぎるので、近似計算をする必要がある。その近似の度合いを高めたほうが、計算コストはかかるが、予報の精度はよくなることが多い、という経験を積んできたのだ。

わたしは1980年代後半、気象庁で数値予報モデルの開発を担当している人からその業務の話を聞くことが多かった。1日くらいの天気予報には、流体としての大気の運動のほうが重要だが、1週間くらいの予報になると、加熱・冷却も重要になってくる。そこで放射吸収・射出の近似を高めたモデルのほうが精度がよくなった、と聞いた。ただし、いくつもの改良を同時に行なって精度がよくなったのであり、放射の改良の効果だけの定量的評価ができているとは限らない。

数値予報を改善するのはたいへんだが、劣化させることは簡単にできる。数値予報モデルで二酸化炭素による放射吸収・射出が大気のエネルギー収支に効かないようにしたら、5日くらいさきの天気予報の誤差は大きくなるにちがいない。

実際に気象庁の数値予報モデルで実験するのは、気象庁のその部署の人の手をわずらわせることになるので、むずかしいと思う。しかし、数値予報モデルとほぼ同じ機能をもつ大気大循環モデルに、再解析プロダクト([2016-05-18の記事]参照)のある日の値を初期値として与えて数日間の予報型シミュレーションをして、数日後の再解析の値との近さで評価することならば、大学の研究室でも(大循環モデルを使う準備が整っていれば)可能だろう。その精度は気象庁などの予報のプロによる予報ほどは高くないだろうが、シミュレーション間の差から放射過程の効果を評価するにはじゅうぶんだと思う。ただし、モデルの構成されかたによっては、二酸化炭素ゼロとか、(放射過程への入力としての)水蒸気ゼロとかいう極端な条件を与えると、モデルのプログラム作者が想定しなかった状況になって、意味のない計算になるかもしれない。「二酸化炭素濃度を標準値の10分の1にする」などならば、モデルは動いて、標準値の場合と明確に違った結果が出るだろう。したがって、Popper流の論理による反証にはならないかもしれないが、広い意味でそれと似た、統計的な仮説選択の例にはなると思う。

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地球温暖化問題の因果連鎖は、温度や、湿度、水蒸気量などまででは終わらない。生物の働き、人間社会の働きがある。

生物の働きは物理現象であるはずだが、物理法則だけでモデル化は困難で、それぞれの種類の生物のふるまい(たとえば光合成、蒸散)とその環境条件との関係に関する経験則を含むモデルになる。(ただし、その定式化を物理法則に反しないようにする、という意味で物理法則も使う。)

人間活動は、自由意志を考えると決定論的モデル化は不可能だが、農業の作付けなどは、環境条件に対して最適な行動をすると仮定すれば、生物の場合と同様に、半経験的にモデル化可能である。

経験則によるモデルは、経験則からずれた観測事例が見つかったら、捨てられたり、修正されたりする。ただし、これを「仮説反証」と言えるかどうかは微妙な問題だと思う。Popperが『客観的知識』の本で述べたような、試行錯誤あるいは仮説の生存競争による知識の発展とは言えると思う。

大気循環や放射吸収・射出のような物理過程の数値モデルに比べて、生物過程や人間活動の数値モデルは、Popper的な科学からはやや遠くなると思う。しかし科学でなくなるわけではないだろう。

文献

  • Karl R. Popper, 1959: The Logic of Scientific Discovery. London: Hutchinson. [ドイツ語初版は1934年].
  • [同、日本語版] カール・ポパー著, 大内 義一, 森 博 訳 (1971): 科学的発見の論理 (上・下), 恒星社厚生閣。
  • Karl R. Popper, 1972: Objective Knowledge -- An Evolutionary Approach. Oxford University Press.
  • [同、日本語版] カール・ポパー著, 森 博 訳 (1974): 客観的知識 -- 進化論的アプローチ。木鐸社。