macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

音楽著作権使用料の問題をめぐって考えること

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

- 1 -
音楽の著作権については、前から慢性的に気にかかってはいたのだが、2017年2月2日の報道、たとえば朝日新聞に「音楽教室から著作権料徴収へ JASRAC方針、反発も」という見出しで出たものをきっかけとしたネット上の議論を見て、いろいろ考えることがあった。

ここでJASRACは日本音楽著作権協会だ。この報道に関連してウェブサイトなどにJASRACの公式見解はまだ示されていない。(2月5日にTwitterにJASRACのアカウントと称するものが出現したが、他人によるなりすましだったそうだ。) JASRACの立場に近いものとしては、大学教員が本業でJASRACの非常勤理事でもある玉井克哉さんのtweetがあった。ただし、玉井さんによれば、JASRACは今回新しい決定をしたわけではなく既定方針で行動しているだけだそうだ。だから公式発表がなかったのだし、玉井さんも今回の件に関する公式見解を知っているわけではなく、近ごろのJASRAC内(理事会など)での平常の議論と、法学者としての彼自身の理屈とを組み合わせてひとつの立場の主張を構成していたのだった。

JASRACと音楽教室との問題についてのわたしの主張は、いずれ、JASRACの公式見解がわかってから、それをもとに組み立てたほうがよいと思っている。しかし、ここでは、これまでに断片的情報をもとに考えたことを忘れないように書き出しておく。

- 2 -
おことわり。わたしは1960年代、親の方針で、幼稚園のころに「ヤマハ音楽教室」 (足踏みまたは電気のリードオルガンの演奏を主とする集団授業)に、小学生のころにピアノ個人指導にかよったことがある。わたしの音楽に対する感覚は、学校の音楽教育の影響とともに、そのような音楽教室の影響も受けて、のちに知った音楽の多様性のうちでは、平均律にもとづく長音階・短音階に偏ってしまったと思う。わたしには、自分の受けた音楽教育を全面的には否定されたくないという思いがあるが、全面的に賛同もできないと思っている。

- 3 -
玉井さんの議論を、わたしは全部理解できたわけではないし、理解したうちでも賛同したところとしないところがある。

しかし、JASRACに関する世の中の誤解をとくところは、もっともだと思った。

JASRACは、一般社団法人だ。社団法人や財団法人の制度が「公益」と「一般」に分かれたときに「一般」のほうになった。会員の共通利益を追求する団体であって、「音楽文化振興」のような活動はするかもしれないが中心の業務ではない。会員は作詞者・作曲者・音楽出版社であり、演奏家や演奏の産物(CDなど)をつくる会社を代表してはいない。

また、「JASRACは天下りに支配された法人だ」という悪評はまちがいだ。ここ十年ほどの役員に元官僚はいない。収入のほとんどは著作権使用料で、そのうち役員・職員報酬を含めて法人内で使われるのは1割程度で、9割は権利者に配分されている。

- 4 -
「音楽教室から著作権使用料をとる」という件から、学校教育法でいう学校での授業は、はじめからはずされている。(このことも誤解している人がいるにはいたが、議論を続けている人の多くは了解していたと思う。) 学校での課外活動(部活動)の場合はどうなるのかという疑問もあるのだが、当面の話題にはなっていない。

ここで問題になっているのは、営利事業の音楽教室だ。大手の少なくともひとつの主体は一般財団法人の形をとっているが、会社によるものと同様な営利事業と見られる。

音楽教室での音楽の利用のうち、公開される発表会については、たとえ聞く人からお金をとらないとしても「公衆向け演奏」にちがいないので、著作権使用料をとってもふしぎはないし、すでにとっているだろうと思う。

今回、あらたにとろうとしているという話を、わたしは当初、生徒が練習することについて使用料をとるのかと思って驚き、反発した。曲を練習するには多くの場合楽譜を使う。楽譜は正式に出版されたものを買うべきだとされており、その場合は楽譜の代金に著作権使用料が含まれている。それに加えて、練習するためにお金を払わせるのは、音楽の普及にブレーキをかけることになるのではないか?

使用料が払われることによって作曲家が練習用の曲を作るインセンティブが高まるという考えもある。しかし、もし音楽教室側がお金をとられるのを(金額よりもむしろ手続きを)いやがって古い曲だけを使うようになると、作曲家が練習用の曲をつくるインセンティブが下がり、上級向けの曲ばかり作るが、上級に達するまで講習を受ける人が減って、作曲家の収入がふえない、という因果連鎖もありうると思う。

しかし、しばらく議論を追いかけてみると、主要な対象は生徒による練習ではなくて、教師による模範演奏らしい。

たしかに、音楽教室での教師の演奏でも、多人数(たとえば20人)の生徒に向けて一曲を通してひくというような形ならば、公衆向け演奏とみなすという判断がありうるだろう。

しかし、授業の途中で(曲の由来を明示して)曲の断片をひくのは、言語の著作物の場合ならば「引用」であって「複製」ではないように思う。(音楽の著作物の場合にどのような法的概念になるのかよくわからないのだが。)

また、模範演奏を聞く生徒がひとりだけでも、JASRAC側の理屈では(仮に玉井さんのtweetがそれを代弁しているとすれば)、生徒になりうる人は不特定多数なので、公衆向け演奏とみるらしい。これは争われるところだろう。実際にそれは成り立たないと考える法律家の発言も見かけた。もしここが対立点ならば、裁判の場に持ち出したほうがよいだろうと思う。【さらに、殺人事件などよりもこのような問題こそ、ランダムに選ばれた市民が裁判に参加したほうがよいだろうと思う。そのような裁判員制度の変更は残念ながら現実に起こりそうもないが。】

- 5 -
報道されたJASRACの方針(とされたもの)に対する反発のうちには、個人経営などの零細な音楽教室から使用料をとるのは弱いものいじめだ、という議論があった。

これに対して、玉井さんは、JASRACは大手を問題にしているのであって、零細な教室からとることはないだろうと言っていた。その根拠は、零細な教室からとるのはJASRAC側の手間がかかりすぎて採算がとれないということらしい。

この点は、わたしには大きな疑問が残る。著作権に関するルールは、利用目的が同様ならば、利用主体の経営規模などによらずに、一様で、予測可能であるべきだと思う。現在のJASRAC経営陣が大手だけをあいてにすると言ったとしても、その根拠が零細なところからとるのはJASRAC側のコストが高くて採算がとれない、ということだとすると、もし利用の判定・集金のてまが減るような技術的事情の変化があれば、「将来のJASRAC経営陣が、ルールの明示的変更なしに、零細教室にも適用する」可能性はあるのではないかと、零細教室関係者や広く音楽教室を奨励したい人々が事前警戒的に心配するだろう。

また、経営は零細のほうが苦しいだろうが、授業料を払う側からみると、個人指導は高級で、大手のほうが(「マスプロ」で生徒あたりの効用が低くなりがちではあるが)庶民向けなのだ。その観点からは、JASRACはとりやすいところからとるだけで庶民側に立つわけではないとも感じる。JASRACは公的機関でないし、すべての著作権者をカバーするものではないので、ライセンス上払うべきとされるところのうちどこから実際にとるかはJASRACの裁量で法的にはよいのだが、とられる側が税金のように意識するので、払うべき条件を明示してそれにあてはまるところから公平にとってくれないと不満を感じる。

もっとも実際、大手ならば、どの曲を使ったかを記録する仕事にそれに適した能力の人を専任で雇うことができるが、個人経営の教師は自分で記録しなければならなくなり、使用料自体よりも自分の人件費の損失が大きいだろう。この意味では、零細の教室からとるのは弱いものいじめになりうる。ただしこの問題の解決は、零細のところを除外することではなく、JASRACか仲介者が、てまのかからない記入方法を提供することだと思う。

- 6 -
作曲・作詞者のうちには、教室では無料で使ってほしいと公言する人もいる。学校教育だけでなく営利事業のものでも音楽普及的価値を認めているのだと思う。

JASRACは、多数の著作権者に同一条件で対応している(それによって集金の費用を安くしている)ので、特定の作者の作品について演奏会では料金をとるが教室ではとらない、といった対応はできないそうだ。

しかしJASRACの意思決定は著作権者の代表によるから、もし著作権者の意志として、たとえ分配金額の総額が減っても、各著作権者の希望条件が尊重されるべきだということになれば、そういうルールになる可能性はあるかもしれない。

また、JASRACとは別の団体を使う人も出てくるかもしれない。

- 7 -
音楽教室の件から離れて、JASRACについての、または音楽の著作権制度についての不満をいくつか聞いた。

現在のJASRACは個人からのとりたてに積極的ではないようだが、かつて激しかった時期があるようだ。個人が、ウェブサイトにMIDI形式のデータ(楽譜と同様の内容で、機械によって音にできる)を置いていたら、JASRACによって規制されてできなくなった、という不満を述べていた人がいた。JASRACは著作権使用料支払いを求めたのだろうが、示唆された手続きがてまがかかるものだったり、契約のために個人情報を提供する必要があったりしたので、置くことを禁止されたように受けとった人が多かったようだ。

葬式にバックグラウンド音楽をかけようとしたら、葬儀会社がJASRACと契約していないのでできないと言われたという話があるそうだ。遺族が自分でやるならば私的使用だろうが、葬儀会社の請負のうちならば、営利事業のうちに公衆向けの演奏や録音再生があるとみなされるのは無理もなく、葬儀会社がJASRACと包括契約するかどうかになるだろう。葬儀会社がそれをしたくないと思う理由のほうを解決する必要があるのかもしれない。

1970-80年代、商店街、食堂、海水浴場、スキー場などの公開の場で流行歌がかかっていることが多かった。今は少ない(その店の宣伝の歌がかかっていることはある)。「人々が流行歌を共有しない」ことを不満に思う人もいるし、「うるさくなくなった」ことを喜ぶ人もいる。わたしの場合は、流行歌のメロディーや歌詞の断片だけ(+たまに歌い手の名)が記憶に残り、曲名、作曲・作詞者名などは知らないままのことが多かった。毎年変わる最新流行の歌については、うるさくないほうがいいと思うことのほうが多かったが、「定番」「不易」の曲については、共有したいと思うこともある。

- 8 -
必ずしもJASRACのせいではないのだが、日本の著作権制度でフェアユース(fair use)の領域が定められていないせいと、生活のうちでインターネットの重みが大きくなったことの組み合わせによって、個人の音楽生活が狭まっていると感じることがある。

わたしが個人としていちばん不満に思うことは、いわゆる「鼻歌」を公開しにくいことだ。

自分が思いついたメロディーが、完全に自作だという自信があれば公開できる。しかし、たとえ自分では自分の作曲だと思っていても、(ものすごく独創的というわけではないので)それまでに知った曲を無意識になぞっているかもしれないし、偶然似てしまうこともあるだろう。

また、オリジナルでなく、どこかで聞いた曲だが、題名も作曲者名も知らないので、知るために提示したいことがある。ただし、記憶から再現した形は、作曲者の意図どおりでなくゆがんでいる可能性もある。

顔を合わせる人に対してならば、自分の声で歌うなり、楽器で演奏するなり、音を出す機械をその人のところに持っていくなりして、きいてもらうことはできる。しかし、仕事や家庭の用事で顔を合わせる人が音楽への関心を共有するとは限らない。インターネット上のサイトに置けば、関心を共有できる人にきいてもらえる可能性は高まるのだが、他人の著作物である可能性があるものを著作者に無断で公開のところに置くのはまずい。

著作者がわからないままでは、使用料支払いが必要かどうか確認することもむずかしい。それで、わたしは、インターネットによる情報発信に音楽を含めることを単純に自粛してしまう。音楽に関する関心の近い人と音楽に関する会話ができないから、自分の音楽の能力がおとろえてくる。

歌詞については、翻訳を試みたり、かえ歌を思いついたりすることもあるのだが、これも同様に、見せられるあいてが限られる。(かえ歌の歌詞は、もと歌の歌詞とまったく共通点がなければさしつかえないはずだが、どこか共通点があるのがふつうだ。)

個別の曲を特定しなくてよい包括契約で、要求される使用料が自分が払える額ならば、払ってもよいかと思うこともある。ただし問題は、契約や支払いの際に、払う相手に個人情報(たとえばクレジットカード番号)を知らせる必要が生じることだ。相手を信頼できる主体に限定したい。

もし仮にJASRACが義務的組織で、日本で音楽で収入を得る人すべてをカバーするならば、JASRACと包括契約することも考えやすい。しかし、著作権者は別の団体に使用料受け取りを委託することもできるし、本人が交渉することもありうる。その自由があるのは、作る側にとってはよいことだと思うが、払う側として対応しきれないところがあって、むずかしいものだと思う。

- 9 -
わたし個人の感覚から少し一般化して、わたしの認識する現代日本社会の問題点を論じてみる。

JASRACのような組織が悪者扱いされがちだと思う。これは、借金を返す義務があることはわかっていても借金取りが悪者扱いされるのと同様だろうか。

使用料がとられて困るほどの金額でなくても、また包括契約で手続きが簡単になっていても、罰金や税金のように感じて、とられたくないと思いがちなのだ。

ルールの解釈や運用によってとられる可能性があるがとられない可能性もある場合、事前警戒して自粛・萎縮してしまう(自分の側のとられる原因を最小化しようとする)ことがありがちだと思う。その結果、音楽活動が不活発になる。

JASRACが敵視されず、取引先の一つとされるように変わっていくべきだと思う。

音楽データを公開する主体は、萎縮せず、損得を見積もって、ときには払い、ときには争う覚悟をしながら払わずに活動していけばよいのだと思う。