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高層

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現代日本語圏で「高層」と言ったらいちばん多い使われかたは高層建築に関するものだろう。高層建築がどのくらいの高さのものをさすかは時代や地域によってまちまちだと思うが、数十メートルから百メートル程度だろう。地上このくらいの高さは、気象学では明らかに「高層」ではなく、大気のうち地表に近い部分である「境界層」に属する。【ここで「接地境界層」と書きかけたのだが、都市のようなでこぼこの激しい地表面の上の大気境界層のうちでどこが接地境界層かはややこしい問題であることに気づいたので、その件には深入りしないことにする。】

気象学でいう「高層」も高層建築の場合と語源は同じであることは明らかだが、別の意味だと言ったほうがよいだろう。ややこしいことに、気象学のうちでも「高層」は少なくとも二つ(分ければもっとたくさん)の別々の意味がある。わたしはその全貌をつかんでいる自信はないが、ともかく知っている範囲のことを説明してみたい。

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気象学の「高層」のうちで歴史の長い使いかたは、「地上気象」対「高層気象」という形で現われる。これは、観測の手段の違いに基づく区分だったにちがいない。地上(タワー上を含む)に足を置いた人が直接さわれるところにある機器ではかれるものが「地上気象」で、気球にのせた機器ではかるものは「高層気象」なのだ。1920年に設立された日本の「高層気象台」(現在は気象庁の部署)の「高層」はこの意味だ。廣田ほか(2013)の本の表題もこの意味を引き継いでいる。

この「高層気象」の対象を「高層大気」とは(昔はともかく今は)けっして言わない。大気を地上からの高さによって層として分けていうときに使う用語で、これに対応するものは「自由大気」だ。これは大気の力学の立場からの用語で、大気の各部分に働く力のうちに地表面の摩擦を考慮に入れることが必要なところが「境界層」で、それを省略できるところが「自由大気」なのだ。

英語で、この意味の「高層」に対応することばは upper-air だ (upper atmosphereではない。) これに対する「地上」は surface だが、地表面(地面・海面)そのものをさすのか、地表面のすぐ上(接地境界層)の大気をさすのか、区別がつけにくいことがある。

また、aerology ということばがある。かつては気象学内の専門分野(日本語ならば「高層気象学」)として認識されていたようだが、今は専門分野名ではないと思う。「高層気象」を観測に基づいて記述したものをさすことが多いようだ。日本の気象庁はながらく、国内のラジオゾンデ(気球に温度計などをつけて観測値を電波で地上に送る観測機器)などによる観測値のデータ集を「Aerological Data of Japan」という英語の表題で出版してきた(最近は紙での出版は続いていない)。また高層気象台の英語名はthe Aerological Observatoryだ。

【ついでながら、ベトナム気象庁(および河川局)にあたる水文気象局の、高層気象台にあたる部門は、英語名をAero-Meteorological Observatoryというのだが、ベトナム語名は(ひとまずローマ字の補助記号を省略して転写すると) Dai Khi Tuong Cao Khong で、それぞれの要素は漢語系で「台 気象 高空」にあたり、日本語の語順にすれば「高空気象台」なのだ。近代科学用語の多くは西洋起源だが、東アジアでは漢語による訳語が共有されていることがある。この場合「気象」は共通だが「高空」と「高層」は少し違う。ただし日本語では「高空」は「航空」と同音なのでこの文脈で使うわけにはいかない。】

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次の意味は、わたしは大学の学部学生のとき(1979年)の気象学の講義の初めのほうで習ったので、気象学の常識かと思ったのだが、どうやら、その授業をした当時の松野太郎先生(著書 松野・島崎 1981)を含む(次に述べる意味の)「中層大気」研究者にとっての標準で、気象学者全体の共通語ではなかったらしい。

大気を高さによって大きく、「下層大気」「中層大気」「高層大気」と分けるのだ。英語の lower atmosphere, middle atmosphere, upper atmosphereが先で日本語は訳語だと思う。ただし、日本語表現は対称性がくずれていて、「低層大気」とか「上層大気」という表現はこの文脈では聞かれない。

大気の標準的な鉛直区分は、「対流圏」「成層圏」「中間圏」「熱圏」だ。下層大気は対流圏、中層大気は成層圏と中間圏、高層大気は熱圏にだいたい対応する。ただし、とくに大気の大規模な循環とその動力源に注目すると、中層大気の熱源はオゾンによる太陽紫外線吸収で、その中心は成層圏中部にある。成層圏下部の循環は、むしろ、地表面からの(または地表面から蒸発した水蒸気の凝結による)加熱を主な熱源とする対流圏の循環につながっている。そこで、成層圏下部を下層大気に含めることがある。

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日本語では「高層大気」よりもむしろ「超高層大気」のほうがよく聞かれる。この用語がさす対象は熱圏とそれよりも上(外圏)を含む。「超高層大気」と「高層大気」とを併用して使いわける人は少ないようだ。そして、超高層大気に対してそうでない大気を呼ぶ用語は決まっていないようだ。「超高層大気」の代表的特徴は、分子の多くが電離してイオンになっていることか、あるいは、大気を構成する分子の種類によって鉛直密度分布の形が同じでないことだ。電離のほうに注目した場合は、超高層大気は電離大気であり、それよりも低いところの大気は中性大気であるということができる。

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ややこしいことには、「高層」を上の「1」とも「2」とも違う意味で使う人もいる。木田(1983)の本の題名は「高層の大気」だが、対象は「2」でいう中層大気なのだ。

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また、aerologyとは別に、aeronomyということばもある。わたしの知る限りでのその意味は、大気の成分に関する専門知識だ。その分野は大気化学と重なるが、大気化学は化学の分科でaeronomyは(地球)物理の分科と考える人もいるようだ。原理的にはどの高さの大気を扱ってもよいはずだが、「2」でいう中層大気のオゾンをはじめとする成分を扱うことが多い。

Aerologyとaeronomyとの関係は、「-logy」と「-nomy」との関係から想像できるものではない。おそらく、両者は別々に他方を意識せずに発明された語で、同じ要素を含んでしまったのは偶然にすぎないのだろう。

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