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天下分け目

西暦1600年。関が原の戦いは、天下分け目の戦いとなった。つまり、10年前にやっと統一された日本が、今度は東西のふたつに分かれてしまったのだ。小早川勢が予定どおり西軍につけば西軍、東軍に寝返れば東軍が有利だと見積もられていたのだが、彼らは結局戦いに参加しなかった。そこで戦いは引き分けとなり、関が原はそのまま事実上の二国家の国境となったのだった。むしろ、古代の不破の関が復活したというべきだろう。愛発(あらち)の関、鈴鹿の関と合わせた三関線によって、日本は「関西」と「関東」に分かれたのだ。(ここで、「関西」は四国・九州も、「関東」は中部・東北も含む意味で使われている。) 皇室は両方から尊重され、中立地帯となった伊賀盆地に本拠を置くことになった。

関東では、徳川家康が江戸に本拠を置き、天皇から「征夷大将軍」に任命されて、「幕府」という名の平時軍事政権をうちたてた。幕府は、外国貿易を認可制とし、認可する対象をしだいにきびしくしぼりこんだ。また幕府はキリスト教を禁止した。幕府は三関線で、武器、外国人、キリスト教徒が関東にはいることをきびしくとりしまったが、出ることに関してはきびしくなかった。関東のキリスト教徒は関西に移住することができ、流血は少なかった。伊達政宗がローマに派遣した支倉[Faxecura]長経(常長ともいわれる)も、仙台に帰らず大阪に住んだ。

関東での書きことばは、漢字かなまじり縦書きの日本語であり、江戸や名古屋などで木版印刷の出版がさかんになった。

関西では、豊臣家、諸大名、堺をはじめとする都市の商人、キリスト教勢力、仏教・神道勢力などが、群雄割拠する状態となった。関東との間には関所があったが、海外との人や物の行き来には人為的制約はなかった。関東からの移住者と外国人を含めてキリスト教徒は人口の3分の1をしめた。キリスト教会は、キリシタン大名からの寄進などにより、領地を持った。ただし、イスパニアポルトガルが同君連合であったにもかかわらず不和であり、ポルトガル政権に近いイエズス会イスパニア政権に近いドミニコ会フランシスコ会などとは協調しなかったため、30年ほどの間は、キリスト教勢力の政治力はそれぞれの教会領地だけにおよぶものだった。

163X年、イスパニアは「日本副王」を派遣してきた。その趣旨は、たてまえとしては、日本を征服することではなく、関西じゅうにモザイク状に分布したキリスト教勢力の領地を統治することだった。彼はイスパニアの貴族だったが、ポルトガル語に近いことばを話すガリシアの出身であり、たくみにイスパニア勢力とポルトガル勢力をまとめた。副王の政権は、関西で最強の勢力となり、その他の勢力をつぎつぎに保護下に置いた。関西は、完全な植民地ではないものの、半植民地化された、と言える。

しかし1640年、ポルトガルがブラガンサ家の王をたてて独立し、同君連合が解消した。またイスパニアから事実上独立していた(承認は1648年)オランダからの船団もますます大がかりになってきた。イスパニア勢力とポルトガル勢力、カトリックプロテスタント、西洋人と日本人との争いを、副王の政権は調停できなくなった。これを機会として、関西はイスパニアからの独立をとりもどした。副王は、イスパニアポルトガルのどちらに従っても他方を敵とすることをおそれ、日本の天皇に忠誠を誓った。関西の統治には引き続き彼の働きが必要だった。天皇は彼を関白に任命した。彼はVirrey del Japónと称しつづけたが、その意味は、イスパニア王の副王から、日本の天皇の代理者に変わっていた。関西には、同時代の西ヨーロッパ諸国と似た国家体制が構築された。

関西の公用語は日本語だが、書きことばは関東とは大きく違うものになった。天下分け目以前にも天草[Amacusa]にイエズス会の出版所があったが、その後、他のキリスト教会や商人も、関西のあちこちで欧文の活字印刷を始めた。日本語も、関西ではローマ字で書かれるのがあたりまえになった。ローマ字のつづりかたは、天草本で使われたものが採用された。これはポルトガル語に近いつづりだが、イスパニア語の話し手も、同じ語のつづりは統一したほうがよいと判断し、イエズス会の実績を尊重したのだ。(ただし、いわゆる「開合」の発音の区別が消滅したのに伴って、「o」の上にのる谷形と山形の記号は、山形に統一されることになる。) 日本語の文章中に、外来語も、とくに文字を区別することなくまぜられた。漢字を書かないと区別できない単語は使われなくなり、やまとことばから組み立てるか、ラテン系言語からの外来語を使うようになった。

【この文章の内容が実話である世界では、この文章は天草式ローマ字で書かれ、語彙にはラテン系言語由来の外来語がまざっているはずである。】