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アイウエオ、カキクケコ

唐の元和元年(日本の延暦25年)、明州(のちの寧波)の港町で、空海は迷っていた。前の年に日本に帰る遣唐使を見送って、空海は唐に残った。ところが遣唐使の船のひとつが難破して乗員が唐に遅れて来たので、彼らのための帰国船がしたてられていた。空海に、20年間の留学を2年間で切りあげて日本に帰るという選択肢が生じたのだ。

空海には、仏教を深く勉強したいという思いと、それを日本の人々に広めたいという思いがあった。深く勉強するためには、予定どおり20年間、唐に残るべきだ。しかし20年後に遣唐使の船が来る保証はない。一生を唐ですごすことになり、日本の人々には貢献できないかもしれない。ほかの船で帰る可能性はあるとはいえ、きびしく言えばそれは違法なので、処罰されて、仏教を広める立場に立てなくなるかもしれない。留学期間短縮も約束違反なのだが、自分がこれまでに得た知識の目録だけでも伝えれば、朝廷もその重要性を認めるはずだから、とがめられないですむ可能性が高そうだ。空海は、帰国の船に乗る決断を、もう少しでかためるところだった。

ところが、新羅から来た商人と話しているうちに、気が変わった。新羅の商船は唐にも日本にも出入りしている。国際関係がよほど悪くならない限り、新羅経由で帰ることはできるだろう。空海は船に乗るのをやめ、長安にもどった。

空海は、漢文に訳される前の天竺の仏教を知りたかった。梵語(サンスクリット)を学び、天竺から伝来した経典を原文で読む日々が続いた。その寺に、天竺から学識のある僧がやってきた。その天竺僧は、日常生活に関する会話は漢語でできたものの、教理を漢語で説明することはできなかった。教理の議論に使える共通言語は、梵語しかなかった。梵語は書きことばとして成立した言語であり、話すよりも書いたほうがわかりやすいこともある。空海と天竺僧は、たびたび梵字で筆談をした。

空海は、梵字の読み書きの基本を、すでに留学1年めに身につけている。梵字が、梵語の発音を母音と子音に分解してあらわしたものだということももちろんわかっていた。しかし、そのとき学んだ経典の地の文は漢文であり、梵字は仏教の教義のうえで重要なことばである「真言」をあらわすところでだけ使われていた。そこで空海は、梵字も、漢字と同様に、発音よりもむしろ意味を表わすシンボルだと思ってしまったのだった。

ところが、筆談をしてみてわかったのだが、梵字は、発音できるかぎり、なんでも書くことができるのだ。

それまで空海は、日本語で思いあたったことを書きとめるのに苦労していた。当時の日本で文字といえば漢字だったから、漢語に訳して書くか、日本語の音に漢字をあてて書くか、しか考えられなかった。ある日、ふと、日本語を梵字で書きとめてみると、漢字で書くよりもだいぶ楽だった。それ以来、空海には、梵字を使って日本語を書く習慣ができた。

日本の天長元年(唐の長慶4年)、予定どおり20年の留学をおえて、空海は日本に帰ってきた。その経路は明らかにされていない。きびしく言うと密航だったのかもしれない。のちに、法力によって空を飛んできたという伝説が広まることになる。

空海弘法大師となり、日本に真言密教や農地灌漑など多くの知識をもたらした。しかし、弘法大師の日本文化への最大の貢献は、日本語を書くのに必要な梵字を順にならべた「অ ই উ এ ও (a i u e o), ক কি কু কে কো (ka ki ku ke ko), ...」【注】である。空海が留学している間に、漢字の省略形を表音的に使って日本語を表わす「かな」という方法をくふうしていた人たちもいたのだが、その技術が確立しないうちに、すでに完成度が高かった梵字が駆逐してしまった。

西暦21世紀のいま、日本語の文章の多くは梵字で書かれ、機械変換で、インド、スリランカ、ネパール、ブータンチベットバングラデシュミャンマー、タイ、ラオスカンボジアで使われている文字で読むこともできる。逆に、これらの国の言語のテキストを、日本の梵字に自動変換することもできる。もちろん、文字をおきかえたからといって、言語間の翻訳ができるわけではない。しかし、これは、日本語と南アジア・東南アジアの言語との両方を使う人々にとっての障壁を低くすることに役だっている。

【この文章の内容が実話である世界では、この文章は梵字で書かれているはずである。】

  • 【注】ここには日本で使われている梵字を示すべきなのだが、代わりにベンガル文字を入れてある。