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ホイッグ(Whig)史観・「勝てば官軍」史観と「地球温暖化の発見」

【わたしは自然科学者であり、自然科学のうち自分の専門に近い分野の仕事について専門外の人に説明する役まわりになることが多い。そのなかでは専門知識が発達してきた過程を歴史的に説明することもある。そういうとき、科学史の立場から見てもまちがいのないような説明をしたいと思う。ただしこれは、歴史学の分科である科学史の専門家と同じような記述態度をとるという意味ではない。】

歴史学のほうで「Whig史観」ということばがあるそうだ。イギリスでTory党とWhig党の間で政権交代があったころ、Whigを支持する歴史家が過去の人々の行動を(当時の)現在のWhigの価値観による評価をこめて記述したことに由来するらしい。わたしは歴史学者のいう「Whig史観」の意味を正確に理解しているか自信がないが、それに近いと思われるものとして、日本語ならば「『勝てば官軍』史観」と表現できる状況があると思う。結果として成功した勢力が、過去にさかのぼって、正当だったとされる、あるいは優秀だったとされる、ということだ。

科学史の人たちの間では、1960--70年代には、Whig史観は科学史家がとってはいけない態度であるという考えが強かったが、1990年代ごろから見なおしがされているそうだ。伊勢田哲治さん(科学哲学者)の2013年の論文と、坂本邦暢さんのブログ「オシテオサレテ」の[2014-01-26の記事]で紹介されていたAlvargonzález (2013)の論文に目を通した。専門的な議論は必ずしもよくわからなかったのだが、わたしとしては、科学史を記述する際には次のような態度をとるのがよいのだろうと思った。

  • 過去の科学者が使った概念が現在の科学者が使っているものと同じだと思いこんで解釈するのはまずい。当時の科学者の概念体系を理解して記述を解釈する必要がある。
  • 過去の科学者の判断について、現在の科学から見て正しい知識につながるものをすぐれた判断、まちがった知識につながるものを劣った判断と評価するような態度はまずい。科学史家は当時の状況を前提に当時の科学者の行動を評価するべきだ。(ここまで、Whig史観の否定にあたる。)

反面、

  • 現在の科学史家が、過去の科学者のどんな仕事に意義を認めてとりあげるかは、現在の視点によって当然だ。それが過去の科学者の生きていた時点での意義と一致しなくてよい。(この態度は広い意味でのWhig史観に含められることもあるが、含めないほうがよいのだろう。)

Weart (ワート)の「地球温暖化の発見[読書ノート]の記述態度は上の箇条書きで述べたものと合っていると思う。過去のだれの仕事について論じるかは、現在の「地球温暖化」の概念が育ってきた過程の源流をさかのぼるという観点で決めている。その人の仕事の中身を解釈する際には、現在の概念をおしつけず、当時の知識を偏りなく読みとろうとする。

たとえば、1820年代のFourier (フーリエ)の仕事は「地球温暖化」の概念の源流として欠かせないものである。しかし、Fourierは「温室効果」(という表現は使わなかったものの、それにあたる)概念は持っていたが、それが大気のどの成分によるものかを特定しなかったし、温室効果の強さが変化することを議論はしなかった。だからFourierが「地球温暖化」を研究した(あるいは、発見した、主張した、警告した、など)とは言えないのだ。Weartはそう言っていないはずだが、その記述を(おそらく)急いで読んだ人がそのように受け取りそう述べてしまうことがあるようで、注意が必要だと思う。

文献

  • David Alvargonzález, 2013: Is the history of science essentially Whiggish? History of Science 51: 85 -- 99.
  • 伊勢田 哲治, 2013: ウィッグ史観は許容不可能か。Nagoya Journal of Philosophy, 10: 4 -- 24. http://hdl.handle.net/2433/179542