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なぜ、どのように「気候工学」(ジオエンジニアリング)に関する研究をするか

わたしは、「気候工学」(ジオエンジニアリング)[2013-11-03の記事参照]に関する研究にかかわっている。その一部は、環境省の環境研究総合推進費S-10「地球規模の気候変動リスク管理戦略の構築に関する総合的研究」(ICA-RUS) http://www.nies.go.jp/ica-rus/ への協力としてである。気候工学の技術を実際に開発しているわけではなく、その効果、費用、副作用などについての文献調査や数値シミュレーションによる研究だ。

ただし、わたしは、気候工学の実行を積極的に推進しようとしているわけではない。地球温暖化問題の対策としては、温室効果気体排出の抑制 (わたしには納得のいかない用語だが「緩和策」と呼ばれる)と、適応策とを推進するべきだと思っている。

気候工学の実行を推進したくないのであれば、研究もするべきでない、と主張する人もいる。気候工学についての知識が蓄積されると、だれかが実行しようと思ったときしやすくなるかもしれない、という考えは一面でもっともだ。

しかしわたしは次のように考える。政治家などが、「気候工学が実行可能であり効果がありそのわりに費用が安い」という話を聞きつけて提案すると、内容に立ち入った議論がされないまま国の政策として決定されてしまうおそれがある。もし反対論が高まると、気候工学は実際以上に危険なものと認識され、そのさきにもしほかに適切な対策がないとわかったときにさえ実行の決定ができなくなるおそれもあると思う。寺田寅彦が1935年に書いたように[別記事参照]「こわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしい」のだ。気候工学には副作用に未知のところがあり、たしかにこわいのだが、こわさの水準を精密に知ることは不可能だ。それにしても、科学的検討によって、合理的な(寺田寅彦のことばでは「正当」な)こわがりかたの範囲をある程度しぼることはできるだろう。つまり、科学者の立場は政策決定者への助言となるのだが、気候工学に関するかぎりは、科学者側から積極的に構想を詳細化したうえでそれについて評価を示すというよりも、政策決定者側がとりあげた際にその根拠となる知見について「こわがらなさすぎ」「こわがりすぎ」などの評価を示せるようにそなえておくことがおもなのだろうと思う。

【[2013-12-07補足]気候工学を実行する提案が出てくるよりもだいぶ早い段階で、気候工学の効果に楽観的で副作用に「こわがらなさすぎる」ような認識をもって、そのような対策があるのだから「緩和策」を政策として進める必要はないと主張する人が出てきそうだ。科学者としてはそういう提案に対して根拠をもった評価をすることがまず必要になりそうだ。】

なお、「気候工学」というものごとのまとめかたは行きがかり上のもので、内容に即したまとまりではない。このことは倫理学者Jamieson氏もClimatic Change誌の特集[読書メモ]の論文で書いていた。太陽放射管理(SRM)と二酸化炭素除去(CDR)とで、またそれぞれの内でも具体的な方法によって、どこにどのような副作用が生じるかはまったく違う。実行提案されるオプションとして評価するのならば、具体的方法について評価する必要がある。ただし、他のだれかが持ち出す可能性に対して「網をはっておく」のが目的ならば、便宜的だが包括的な気候工学という用語がむしろ適当なのかもしれないと思う。

研究の過程では、気候工学を「緩和策」・適応策とともに選択肢に含めて費用便益分析のようなことをするかもしれない。しかし、それを、気候工学を導入するオプションが正味の便益が最大となるならばそれを採用すべきだ、というふうに解釈されうる形で提示することは避けたい。費用便益分析の中に持ちこめない倫理やガバナンスにかかわることがらも入れた評価をしなければならない。

SRMでは、もし全球平均地上気温を指標とした意味で温暖化を打ち消したとすると、低緯度では冷やしすぎとなり高緯度では温暖化が残る。降水量の変化は予想がむずかしいがどこかの地域では減るだろうから水資源の不足をもたらす可能性がある。ところが、気候変動の対策を評価するための統合評価モデルの気候の部分は、気候の構造を単純化して表現していることが多い。たとえば、気候変化は全球平均地上気温の関数とみなしてしまうことがある。ところが、このようなモデルではSRMは(温暖化をすなおに打ち消す形で表現されるので)いいことづくめに見えてしまう。大まかなものであってもSRMの効果の定量的評価を示すには、少なくともいくつかの緯度帯に分けた気温と降水量を含めた気候の表現をする必要があるだろう。

CDRは、気候に対する効果に限れば、強制を減らすことであり、「緩和策」といっしょに扱ってよい。しかし、大気から取り除いた二酸化炭素をどこに持っていくかが重大問題で、おそらくその行き先での生態系へのインパクトが無視できないだろう。また大気からの隔離が破れるリスクを考えておく必要がある。こういう問題は検討された例が少ないし、これから検討するにしても具体的な場所・規模を決めないとあまり精密な議論はできないだろうと思う。「こわがらなさすぎ」とも「こわがりすぎ」とも言いきれない評価の幅はなかなか縮められないかもしれない。縮めることよりもむしろ、その幅を示すことができるようにしておくことに意義があるのだろうと思う。

【ICA-RUS研究プロジェクトの研究集会で、ゲストの研究者から、ICA-RUSでの気候工学の扱いかたに関する批判的コメントがあり、プロジェクトメンバーからの応答があった。わたしは発言に至らなかったのだが、そのとき考えたことを整理しなおしてここに書いた。批判的コメントを、わたしは当初、価値判断的な意味で気候工学を「緩和策」と同列に扱わないほうがよいということだと解釈して考え始めてしまったのだが、あとの話も聞くとむしろ、SRMを統合評価モデルで単純に扱ってその結果を提示するとSRMに対して楽観的評価になるおそれがあるという指摘であるようだった。】