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いわゆる健康食品の問題、資本主義政策への疑問

[2013-12-01]の記事で述べた、日本科学者会議 東京科学シンポジウムのニセ科学問題分科会で聞いた話のうち、いわゆる健康食品あるいはサプリメントに関する問題について、もう少し考えてみた。

健康食品というのははっきり定義された概念ではない。日本の法制度としては1991年に「保健機能食品」というものがある。これは個別に許可を得た「特定保健用食品」(「トクホ」として知られる)と、栄養素成分が基準を満たしていることを示す「栄養機能食品」がある。しかし「健康食品」あるいは「サプリメント」として売られているものはそのどちらでもないものが多い。そして、保健機能食品以外の食品については、健康に対する効能を示して売ってはいけないことになっている。

実際には、健康食品の広告では、医薬品とまぎらわしい効能をうたっているものが多い。ただし、違法にならないように、小さく「個人の感想です」とことわったり、連想を起こさせるだけで論理的につながっていない表現をしたりする。実際には、日本で売られている健康食品にはとくに効能がないものが多いそうだ。(たとえば、コラーゲンは皮膚を構成するたんぱく質ではあるが、コラーゲンを食べても胃でアミノ酸に分解してしまうので、コラーゲンは他のたんぱく質食品と同様な価値しかない。)

健康食品を売る業者のうちには、原料や工場の安全管理もしっかりしておらず、有害性やうそが指摘されたら会社をたたんで別のところに移るような、無責任なところもある。

しかし最近はむしろ、大企業が乗り出している。(わたしは、他分野の製品について高く評価しているある会社がコラーゲンを主成分とするサプリメントをさかんに宣伝していると知って、悲しくなった。) 宣伝にはテレビをはじめとするメディアが動員される。まず番組でとりあげてもらって特定の成分の評判を高めておいて、それからそれを含む製品を売り出す、という策略が使われることもある。効能らしいものの根拠として科学研究成果らしいものが使われることが多い。しかしそれは、学会で発表したとはいっても査読を経た論文に至っていないものだったり、なぜか査読を通っていても研究方法を検討してみると主張が正当化できないものだったり、あるいは論文自体は科学的に筋が通ったものではあるがその結論から製品の効能につながる筋は通らないものだったりする。このような科学の使いかたは、商品の優良誤認をもたらすものだ。「ニセ科学」という表現が適切であるかどうかの疑問は残るが、これを「ニセ科学問題」に含めた人たちの批判の趣旨はもっともだと思う。

おそらく信用を重視する企業ならば、食品としての安全性には注意しているだろう。それでも、効能のある印象を与えると、栄養が偏ってしまったり、適切な医療を受ける機会をのがしたりすることによって、消費者の健康に悪影響をおよぼす可能性がありうる。そのような実害がなかった場合にも、たいした健康効果がないわりには値段が高いこと、つまり宣伝の効果によって消費者から生産者に富が移転させられる、という問題がある。

このような企業の行動が制裁を受けないで続いてしまうのは、おそらく、現代社会が、金銭の尺度ではかった経済活動の成長が望ましいとしているからだと思う。すでにアメリカ合衆国などでは1960年ごろから宣伝によって需要をふやす「浪費をつくりだす人々」(Vance Packardの本[英語版The Waste Makers 1960年、日本語版1961年]の題名)が活動していた。今では物質の質量の尺度ではかった経済活動の成長に限りがあることが明らかであり、質量あたりの金額を大きくするしかなくなってきた。質量あたりの実質的効用を大きくできればよいことなのだと思うが、それはたやすいことではない。特定の成分を多く含む「健康食品」はふつうの食品よりは製造原価も高くなっていると思うが、消費者がそれよりもさらに高い価値があると誤認して買ってくれれば、それを売る会社がもうかるだけでなく、国民経済としてみても取引額がふえる。健康政策としてはむしろ一般の食品の品質がよくなるほうが望ましいと思うのだが、経済政策が「健康食品産業の発達」をマクロに見てよいことと評価するので、止まらないのだと思う。

日本では第2次大戦後、世界のほとんどの国でソ連体制崩壊後、政策の基本に資本主義的な経済政策が置かれるのが当然のようになっているが、これは変えるべきだろうと思う。市場経済をやめてソ連型の統制経済にするべきだという意味ではない。経済は市場経済でよいのだが、健康や環境や労働条件に関する政策を経済政策に従属させないということだ。