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「学説過信」 -- いわゆる「ニセ科学」問題の論点整理の試み

2013年3月10日の記事[「ニセ科学」と仮称される問題群の論点整理の試み]に続いて考えたこと。

金森(2013)の論文を読んで、その中に出てくる「科学的イデオロギー」という概念が参考になると思った。

【金森氏のこの論文は、2013年5月に開かれた日本哲学会のシンポジウムの前に書かれたものだが、出版はシンポジウムよりあとになった。シンポジウムでの討論の内容はこの雑誌のこの号には含まれていない。

この論文を知ったのは、同じシンポジウムの講演者である伊勢田哲治氏が事前に金森氏の原稿を見て「センセーショナルな言葉が並んでいて陰鬱な気分になる」とtweetしていたからだった。論文を読んでみると、わたしも、伊勢田氏がtweetで指摘していた「旧ソ連よりひどい棄民ぶり」(第1節 27ページ)や「近未来に放射線障害で苦しむはずの多くの同胞」(第3節 38ページ)という表現は、事故後2年を経てわかってきた現実にそぐわないと思う。世の中の言説が次の複数のことがらを混同する傾向があり、金森氏はおそらく4を述べている言説を2を述べていると理解してしまったのだと思う。

  1. 現実に起こっていること
  2. 近未来に有限の(無限小とみなせない)確率で起こりうること
  3. 近未来に創発的展開(事前に確率を想定するのがむずかしい事態の実現)があれば起こりうること
  4. 事故の過程が現実とわずかに違っていたら起こりえたこと
  5. ほぼ同様な設備の事故によって起こりうること

今は「科学的イデオロギー」以外の金森氏の議論には深入りしない。】
【[2018-08-01補足] わたしは、「旧ソ連よりひどい棄民ぶり」は、ある意味では正しいと思うようになった。しかし依然として、「近未来に放射線障害で苦しむはず」と組み合わさった金森(2013)の認識には賛同しない。】

「科学イデオロギー」ということばは金森氏の論文の第2節の表題になっているが、その概念を説明しているのはそのうち「(A)」の部分 (29-32ページ)だ。これはカンギレムが使っていた用語だそうで、文献としては1977年のフランス語版Idéologie et Rationalitéがあげてあるが、2000年のフランス語版にもとづく日本語版を見てみると、第1部第1章「科学的イデオロギーとは何か」で論じられている。この章のむすびにあたる第4節 (46-49ページ)のうちから箇条書き部分を引用する。

  • (a) 科学的イデオロギーは、その対象が、借りものとしてそれに適用される科学性の規範に比べて、誇大に膨れ上がっているような説明体系である。
  • (b) ある科学が設立されるに至る分野には、その科学以前につねにある科学的イデオロギーが存在し、あるイデオロギーが斜めに対象とする側面の分野には、そのイデオロギー以前につねにある科学が存在する。
  • (c) 科学的イデオロギーはにせの科学と混同されるべきではなく、魔術とも宗教とも混同されるべきではない。科学的イデオロギーは、にせの科学や魔術や宗教と同様に、全体性への直接的な接近の無意識的な欲求によって確かに駆り立てられてはいるが、それがその威信を認め、そのスタイルを模倣しようと努めるところのすでに設立されている科学の方を横目でやぶにらみする一つの信念なのである。

【[2013-10-21補足] カンギレムのいう科学的イデオロギーは、人間の知識の歴史の中で、科学が扱うべき領分が、宗教あるいは魔術が扱う領分と区別されるようになったあと、しかし、そこが科学的方法の規範に従った科学によって埋めることがまだできないときに出現する。その領域を満たすものが必ず科学的イデオロギーになるというわけではないらしい。しかしその領域の問題を解こうとする人が野心的に学説をたて、それで解けたと思ってしまうことは起こりがちなのだ。カンギレムの考えによれば科学的イデオロギーをたてることは科学的というよりも哲学的行動である。しかし(わたしの考えだが)本人は科学をやっているつもりであることが多いのではないだろうか。】

ここに「にせの科学」という用語が出てくるが、カンギレムがこれをどういう意味で使ったのかわたしにはまだ確認できていない。【[2013-10-21補足] 「にせの科学」が最初に出てくる第3節にも定義らしいものは見あたらないのだ。ただし、科学的イデオロギーが歴史とともに変化しうるのに対して、「にせの科学」は変化しえないものである、という違いの説明はある。】ただし文脈から、菊池誠氏などの用語の「ニセ科学」はここでいう「にせの科学」よりはにあたる場合もあるかもしれないが、「科学的イデオロギー」のほうに近いことが多いと、わたしは暫定的に判断している。【[2013-10-21補足] ただし、すでに(まだ有用な答えを出していないかもしれないが)同じ領域をカバーしうる科学のいとなみがあるのに並行して存在する点で、カンギレムがあげる歴史的な状況での科学的イデオロギーと違っている。】

金森論文の第2節(A)で「科学的イデオロギー」が出てきたところでは、「科学の通常の規範からみれば誇張的な 対象領域を巻き込む独特な説明体系のことだ。...実際にそれと関わる題材が実質的科学として確立される時、その役目は終わりを迎える。」という説明がある。

例としては、医学の歴史から、ブラウン(John Brown, 1735-1788)の興奮性の理論や、それと対立していたブルセ(François Broussais, 1772-1838)の刺激理論があげられている。1820年代、ブルセが大きな影響力をもち、病気になるのは刺激の多すぎる状態からくることが多いと判断されて、沈静させるために瀉血がされた。

【ここから金森氏のことばを離れてわたしのことばで議論を続ける。】 病原微生物という考えがなかった当時、病気の原因に関するよく検証された科学的仮説はなかった。しかし医者は治療計画のための作業仮説を必要とした。そういう状況では、作業仮説を、まだ充分検証されていない作業仮説であると意識しながら使うことが望ましい(わたしの価値判断)。そこで自信過剰になり、仮説に合う事実ばかりを見るようになるのはこわいことだ。

瀉血は命を救うよりも命を縮めたほうが多いのではないだろうか。もしかすると、公衆衛生面から考えれば、病原微生物の宿主が生きている機会を減らすことにより、その後の感染者を減らす、破壊消防と同様な効果があったかもしれない。しかし直接の患者を助ける意味では、この仮説が信頼されたのは失敗だったと思う。

さて、近ごろの日本で「ニセ科学」を論じる人が問題とする状況は、意図的な詐欺を別とすると、「同様な題材についての科学が成立しているにもかかわらず、科学的イデオロギーを行動の指針として尊重すること」だと言えると思う。ただし、そこで科学が成立しているといっても、科学が人々の問いに正面から答えられるとは限らない。対象は複雑なので、科学の答えもわかりにくいものになりがちなのだ。そこで(正しいかどうかはともかく)明快な答えを出せる科学的イデオロギー、つまり池内(2008)のいう「第3種の疑似科学」に支持者が集まりがちなのだ。

【金森論文の第2節(B)以降の議論は、現代の科学についての批判に向かう。ただしその内容と「科学的イデオロギー」の概念との関係は明確に示されていないと思う。

わたしの考えはHacking (1999)に近く、科学者が何を問うかについては社会の影響を受けるが、自然科学に関する限り、問いが定まって科学的探究によって得られた純粋科学的な答えの正しさは社会的条件によらない、と思う。(応用科学的成果の評価が応用を期待する社会の条件にもよるのは当然である。) そこで、科学への批判はおもに何を問うかに向けられると考えている。】

「科学的イデオロギー」という概念は有効だと思うのだが、この用語はわかりにくい。カンギレムも、「科学者のイデオロギー」と区別する必要があることに注意している(金森論文 31-32ページ)。ここではその内容に立ち入ることは避ける。わたしは、イデオロギーと言えばおもに政治・経済に関する思想の骨組みだと思ってしまう。

「科学的イデオロギー」という概念に合っていると思った状況をわたしなりに表現しなおしてみると、「学術的な仮説に、その仮説の実際の裏づけよりも大きい信頼を置いてしまうこと」だ。ここで「学術的」とは、「科学的」を主とするがやや広く、歴史学的・哲学的なども含む意味である。短く表現したいときは「学説過信」と書くことにする。

比嘉照夫氏による「EM (有用微生物群)」の提唱は、ここでいう学説過信の典型的あらわれと考えられる。
「なまごみを堆肥にする際には有機物を分解する微生物が働いている」は、学術的仮説で、裏づけもある。
「その働きをしている微生物群を培養しておけば、別の場面で有機物を分解する際に使うことができる」というのも(もう少しきちんと表現すれば)学術的仮説であり、検証してもし有効ならば応用に役立つだろう。ただし、検証された範囲を適切に認識しなければならない。
この微生物群が、有機廃物に限らない環境汚染の解消や、農業生産の増進に有効かどうかは、それぞれ具体的仮説をたてて検証してみないとわからないが、基本的な有機物分解能力と関係ない性質は、調べてみるまでもなく期待できないだろう。
仮説・検証の過程を経ないで、対象範囲を広げた有効性を主張してしまうのは、学説過信である。

次に、地球温暖化に対する否定論について考えてみる。
1970年代までならば、地球の気候の今後数十年の変化の見通しに関して、学説はあったとしてもまちまちだった。その中で特定の学説を過信する言動もあったが、政策を決めるほどの影響力はもたなかった。
1970年代の間に科学的認識が発達し、「気候の変化が地球の大気・水圏全体のエネルギー収支に支配されるならば」という前提をおけば、変化の要因は複数あるが、そのうちで化石燃料燃焼起源の大気中の二酸化炭素増加による温暖化が主要である、という学説がかたまってきた。そしてそれ以後、裏づけをふやしてきて、1990年代以後は政策にも影響をおよぼしてきた。
1990年代以後の時点でも、「気候変化の原因として二酸化炭素よりもほかの『これこれ』が重要である」という主張は科学的作業仮説でありうる。ただしそれが二酸化炭素が主要であるという説よりも重視されるには、たくさんの裏づけが必要である。科学者を納得させられるだけの裏づけを示さないで「気候は『これこれ』の原因によって変化し、二酸化炭素増加によっては変化しない」と主張することは、学説過信である。
ただし、「気候変化の原因は二酸化炭素だけである」という主張(気候を専門とする科学者が言うことはまず考えられないが他の専門の人からは聞くことがある)もまた学説過信である。

文献

  • Georges CANGUILHEM, 1977, 1988, 1993, 2000: Idéologie et Rationalité dans l'Histoire des Sciences de la Vie. Paris: Librarie Philosophique J. Vrin. [わたしは読んでいない]
  • [同、日本語版] ジョルジュ・カンギレム 著, 杉山 吉弘 訳 (2006): 生命科学の歴史 -- イデオロギーと合理性 (叢書 ウニベルシタス 839)。法政大学出版局, 228+20 pp. ISBN 4-588-00839-0. [わたしは第1部第1章を読み、そのほか少し拾い読みした段階である。]
  • Ian HACKING, 1999: The Social Construction of What? Cambridge MA USA: Harvard University Press, 261 pp. ISBN 0-674-81200-X. [読書メモ](←リンク訂正2013-09-08) [この本は日本語版「何が社会的に構成されるのか」もある。]
  • 池内 了(さとる) , 2008: 疑似科学入門 (岩波新書新赤版1131)。 岩波書店[読書ノート]
  • 金森 修, 2013: 認識論とその外部。哲学 (日本哲学会 編), 64号, 25 - 41.