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黒い雨

広島・長崎の原子爆弾による、いわゆる「黒い雨」について、テレビのドキュメンタリーを見た。NHK「黒い雨 --活(い)かされなかった被爆者調査--」だ。2012年8月6日に放送されたのだが、わたしは8月14日午前0時50分(感覚的には13日の深夜)からの再放送を見た。

原爆による放射線ひばくとしては、原爆の爆発から直接出た放射線によるものだけが詳しく検討され、原爆症認定の根拠にもなってきた。これは爆心から2 kmで100 mSvになり、その外側では健康に影響は見られないとされている。このほかに、残留放射線や「黒い雨」の影響も話題にはなったのだが、公的にとりあげられることが少なく、原爆症認定を要求する訴訟もあるがなかなか進んでいない。

アメリカで出された報告書(番組では詳しく説明されなかったが、ネット情報を合わせるとYamada and Jones 1972)で、雨を浴びた被爆者の急性症状が示されている。そこで示されたのは統計的結果だけだが、その材料はアメリカが広島につくったABCCが1950年代に行なった約9万3千人の聞き取り調査で、原爆直後に雨にあったかという問いに対して約1万3千人がyesと答えている。(「黒い雨」とは限らない。Yamada and Jonesの報告にあげられた質問項目には雨の色もあるので、「黒」と答えた人数も調べればわかるはず。) 調査票はABCCを引き継いだ放射線影響研究所(放影研)にあるが、放影研はこれまでこの質問項目を使った研究をしてこなかった。調査票に関する問い合わせには、個人情報なので出せないと答えている。(調査対象者個人からの問い合わせに応じて本人の情報を出してはいる。)

広島大学の大滝慈教授たちは、被爆した場所によってがんの死亡リスクがどう変わるかを調べた。(ネット情報を合わせるとTonda ほか 2012の論文に対応するらしい。) 初期放射線だけならば同心円状になることが期待されるが、それに比べて西・北西方向で値が大きくなっている。これは黒い雨が降ったとされる地域と合っている。大滝教授たちはこれを放影研のデータとつきあわせて分析したいと考えている。放影研も共同研究の提案があれば検討するとしているそうだ。

【[2012-08-19補足] 論文の筆頭著者の冨田哲治氏は現在、県立広島大学准教授。統計学、とくに空間分布と時間変化のある現象のデータ解析の専門家。研究紹介 http://www.pu-hiroshima.ac.jp/files/0414_TondaT120418.pdf 大学内の個人ウェブサイト http://www.pu-hiroshima.ac.jp/~ttetsuji/ 。】

放送のナレーションは、黒い雨をあびたことによるひばくと、残留放射線によるひばくを混同していたように思われた。わたしは、原爆による放射線ひばくは、次のように区別されると思う。

  1. 直接被爆。時間スケールは秒。大気中で爆発した原子爆弾そのものから出た放射線や、それを受けて放射化した物体から出た放射線を人が受けたことによる。
  2. 仮称「降下物被爆」。時間スケールは数日。大気を通じて届いた放射性物質による。主として、エーロゾル粒子となったものが、降水に伴って沈着する。大部分は外部ひばくだが人体に接触した位置に放射線源がある。一部は内部ひばくとなる。
  3. 残留放射線ひばく。時間スケールは放射性元素によってまちまちだが数年におよびうる。地面や建物にある放射性物質(被爆によって放射化した物体と、降水その他の形で大気から沈着した物質の両方を含む)から出た放射線を、その付近で生活している人が受ける。

降下物と残留放射線のうちで、もし降下物のほうが主であれば、ABCC調査の雨をあびた人について統計的傾向が見えてくるだろうが、もし残留放射線のほうが主であれば、関係が出てきそうなのは雨が降ったところにその後住んでいた人ということになる。一致はしないがかなりの相関がある要因がからむ。

そして、残念ながら、雨の強さや色などについてもたずねてはいるものの、それぞれの人がどんな放射性物質をどれだけ含んだ雨をあびたかを推測することはほとんど不可能だろう。健康影響のほうも発がんという確率的なものなので、雨をあびたことあるいは雨の降ったところに住んでいたこと(両者を混ぜてよいならば)との統計的関係を推測することはできるかもしれないが、統計を構成する個々人について因果関係の蓋然性を述べることはむずかしいかもしれない。

また、空間分布から考えるとしても、直接被爆の線量が同心円的と考えてよいのとは違って、雨の降りかたは一様ではないし、雨への放射性物質のとりこまれかたも一様でない。復元推定は、大まかな特徴についてしかできないだろう。(「爆心から西側に多かった」というのは大まかな特徴の例。)

政治的正義の問題として、原爆被害者に対する救済はあるべきだと思う。しかし、因果関係について、不確かさの大きな確率的推測しか得られないとき、原爆症の認定の範囲をどこまで広げるのかは、とてもむずかしい問題だと思う。原爆による被害は放射線ひばくばかりではなく、そのうちには通常兵器による空襲の被害と共通のものもあることも、考えに入れる必要があるだろうと思う。

なぜ、かつてのABCCやアメリカ政府が黒い雨や残留放射線の影響を扱うのを止めてしまったか、また1975年以後の放影研や日本政府がその態度を引き継いでしまったかについては、番組ではある考えが示されたが、わたしは必ずしも納得できなかった。核兵器開発の立場、いわゆる平和利用推進の立場、純粋科学の立場がからんでいると思う。まだ頭の整理ができていないので議論は別の機会にしたい。

なお、番組とは別の話になるが、雨がどのように降ったかについては、気象学者による調査(増田善信, 1989)がある。(発行当時に見たのだが忘れていて、ネット情報で思い出した。)

放射線ひばくの確率的影響の議論にはどう響くだろうか?

番組は広島・長崎の被害はこれまで公的に認められてきたよりも大きいことを示唆する。それは、福島原子力事故やそのほか世界の放射線ひばくの影響を評価するうえでも変化をもたらしうることであり、そのことは番組でもちょっとだけ示唆されていた。しかし、具体的にどういう変化をもたらすかの話はまったくなかった。

ここからは番組と関係ないわたしの考え。放射線ひばくの確率的影響の議論では、発がん率またはがんによる死亡率をひばく線量の関数として示す式が使われる。その係数を決めるおもな材料として広島・長崎の被爆者の調査のデータが使われた。がんは自然にも発生するので、調査対象の人々のうち推定されるひばく線量が充分少ない人は対照群とされ、被爆群と対照群との差が被爆の影響とされた。そのとき使われたひばく線量は直接被爆だけであり、「黒い雨」が考慮されていない。このことは、次の2つの違った効果がありそうだ。

  • 対照群に含まれた人が実際には「黒い雨」でひばくして発がん率が高まっていたとすれば、本来あるべき対照群の発がん率は研究で使われた対照群の発がん率よりも低いはずなので、線量の影響による発がん率を求める式の係数は高いほうに修正されるべきだろう。
  • 被爆群に含まれた人のひばく線量は直接被爆で算定されていたが実際はさらに「黒い雨」でもひばくしていたとすれば、その人のひばく線量は高いほうに修正されるべきであり、線量から発がん率を決める式の係数は低いほうに修正されるべきだろう。

文献