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理系知識人と文系知識人の発想について

安井至氏のウェブサイト「市民のための環境学ガイド」の9月18日の記事「内田樹氏と藤原正彦氏の主張」の中に、藤原氏の著書「日本人の誇り」の論点を参考にした、文系知識人と理系知識人の発想の違いの議論がある。理系の側から、文系知識人の議論のしかたに不満を含めた議論になる。安井氏は、とくに理系の発想については、藤原氏に部分的に賛同し、部分的には違うと言う。

わたしはこのうちとくに藤原氏から引き継がれた論点に感覚的に賛同できなかった。わたしは「市民の教養としての数量判断能力を」という文章を書いたことがある。そこではGarrett Hardinの著作を参考にして、英語圏でnumeracyといわれる概念を考えた。(Hardinとそれを参考にしたわたしの重要な論点はむしろもうひとつの「ecolacy」のほうなのだが、その議論は別の機会にし、ここではnumeracyにこだわる。) これはliteracy (読み書き能力)が言語をあやつる能力であるのと同様に数量を扱う能力だ。わたしの感覚としては、理系の教養のある人とはnumeracyのある人だと言ってよい。Numeracyの乏しい人は理系度が低い。だからと言ってnumeracyの乏しい人をみんな「文系」と呼んだら失礼だろう。文系の教養のある人はnumeracyは乏しいかもしれないが、literacyは人並みよりはだいぶ高いはずだ。

安井氏の「リスク理系」という表現に触発されてもう少し考えてみると、わたしの意味での理系の教養のある人は、すでに数量として表現されている数量を理解して扱えるだけでなく、まだとらえどころのない概念も、数量であるかのように考えて、他のものごととの関連を議論できる人だ。Numeracyということばですなおに想定される内容よりも高度な教養かもしれない。

なお、ここでわたしが想定する数量は、連続量、つまり数学でいう実数で表現される量だ。なんでも連続量で考えたがるのは、物理、ただし、量子物理学ではなく、NewtonやMaxwell古典物理学の発想が身についてしまった人のくせかもしれない。他方、数学者には離散量で考えるのを基本とする人が多いのかもしれない。(数学者でも、統計学や(SIAMで扱うような)応用数学を専門とする人のうちには連続量で考える習慣のある人も多いと思うのだが。)

考えてみれば、理系の教育のうちには、藤原氏の言うような白か黒かをはっきりさせる発想の訓練もあると思う。初等幾何学の定理の証明などが典型だろう。また、Fortranプログラマーとして言えば、Fortranで扱われる対象は連続量の近似値なのだが、プログラムの手順を組む際に必要なのは真(1)か偽(0)かだけからなる記号論理なので、この道で成功するには両方の感覚が必要なのだ。ただし、真か偽かの論理を使いこなせることはnumeracyとは別のものだと思う。法学などでも必要になるものであり、むしろliteracyの一部だろうと思う。

さて、わたしは長いこと、文系の知識人とは、真か偽かの論理を基本として考える、つまり白黒の区別をつけたがる人たちだろうと思ってきた。安井氏が引用する藤原氏の、文系知識人はすべてを灰色とみなそうとする、という論評が、意外だった。

しかし言われてみれば、現在の文系知識人のうちには、自分の分析的思考を使って、自分自身の立場をも疑ってみる、という発想をもつ人が多いと思う。そして、理系知識人にはそういう自己分析的態度があまり見られず、それは文系知識人から見れば理系知識人の欠点だろう。(ただし、研究態度の分析は文系の専門課題にはなりえても理系の専門課題にするのはむずかしい。脳科学なり行動科学なり情報科学なりで学問の過程を扱えはするが、まだ自己分析に役だつものではなさそうだ。学問的価値のある分析をするためには理系文系を越えた方法の構築が必要なのだろうと思う。)

わたしは文系知識人が書いたものを読むことがあまり多くないので自信がないのだが、近代(おそらく20世紀なかばまで、ソ連圏ではソ連崩壊まで)の指導的文系知識人は、それぞれ自分が大事だと思った座標軸に従って白黒はっきりさせた議論をする人が多かったのではないだろうか。しかしそれでは、意見の対立を解消することができず、へたをすると殺し合いに至ってしまう。その反省のもとに、現代の文系知識人は、自分の立場も含めてどの立場もまちがっているかもしれないことを意識しながら話すようになったのではないだろうか。

ただし、絶対的に正しいともまちがいだとも決めつけないとしても、みんな灰色だからよしあしの判断はできないとする必要はない。知識人と言われるのにふさわしい人は、灰色のうちでどれを選ぶかを考える人だと思う。他方、どうせ灰色なのだから知識を深める必要はなく気分で意見を言ってよいのだというほうに行ってしまう人も(文系理系問わず)多いのではないかと思う。[この段落2011-09-24]。

理系にもどってみる。理系知識人(知識人というのにふさわしい人)は、自分の学問的議論がまちがっている可能性は考えに入れていると思う。しかし、自分の議論を成り立たせている概念体系(現実世界のものごととそれを表現することばとの対応づけ)がまずい、あるいは自分と相手の概念体系が違うために言いたいことが伝わらない、ということには思い至らないかもしれない。

仮のまとめ。教養の要素として次のものがある。[この段落2011-09-24]

  • 論理的思考。論理にもいろいろありうるが、すべてのものごとは真(1)か偽(0)かのどちらかに決まっていることを前提とした狭い意味の論理を理解し必要に応じて使えることは、文系理系を問わず教養の重要な要素だと思う。
  • 数量的思考。理系の教育がこの訓練になると思う。(ただし理系でも数学に重点を置いた場合は違うのかもしれない。) そのひとつの類型として、古典物理的数量観がしみついた人の場合は、すべてのものごとを実数で表現される連続量としてとらえようとする。わたしはこの思考ができる人がふえてほしいと思っている。
  • (システム的思考 (Hardinのいうecolacy)。別の機会に。)
  • 自己分析的思考。自分が考えを組み立てたり他人の議論を評価したりする際に前提としている枠組みを、自分が他人であるかのような視点から考えなおしてみること。この思考ができる人もふえたほうがよいのだろう。科学者の思考枠組みを考えるうえでは科学論(科学哲学、科学技術社会論を含む)が参考になるが、あわてて特定の科学論者の枠組みにはまりこむのは避けたほうがよさそうだ。