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「想定外」 -- トランスサイエンス

サイエンスメディアセンターという団体があります。http://www.smc-japan.org/ のウェブサイトは、福島原発事故に関連して複数の専門家の見解を紹介している特徴あるサイトです。しかしこの団体の主要な業務はこのウェブサイトではなく、科学に関する情報を求める報道メディアに科学者を紹介することだそうです。本拠地は東京の早稲田にあり、なん人かの主要なメンバー早稲田大学教員でもあります。発足したのは昨年で、今のところ科学技術振興機構(JST)の社会技術研究開発センター(RISTEX)の支援を受けています。

4月29日、ここでセミナーがあったので出席しました。講師は隈本邦彦さんで、現在は大学教員ですが、NHKの報道記者の経験のあるかたです。題目は「東日本大震災の何が想定外だったのか、これから何が起きるのか」でした。ほぼ同じ内容を雑誌「ジャーナリズム」に「『想定外』ではなかった東日本大震災、災害報道に必要な歴史の検証」として書かれたものが近く印刷になるということでした。

確かにテレビで中継された津波としてはこれまでに日本では「未曾有」の規模であり、世界でも2004年のスマトラ沖地震だけでした。

しかし、貞観地震(889年)は歴史書「日本三代実録」に記録されており、そのときの津波の規模が、最近数年間に、産総研(もとの地質調査所に相当する部門)そのほかの機関の研究でわかってきていました。結果として今回の地震津波の規模はこれとほぼ同じだったようです。(あとで本屋に行って気づいたのですが、同じ話題は日経サイエンス(中島, 2011)にも紹介されています。) その規模は想定可能でした。実際、昨年の産総研公開をきっかけに学習し、それが理由かどうかはわかりませんが避難に成功した工場もありました。

地震学者が今回の地震の規模が想定外だったと言ったのはその専門分科特有の事情がありました。岩手県沖から茨城県沖までの広い範囲の岩盤がいっしょに動くことが想定されていなかったのです。プレートどうしが接しているところのうちで固着しているところとすべりやすいところがある、という認識が学問的先端でした。宮城沖・福島沖などは巨大地震が何百年もなかったのですべりでひずみが解消されているところだと思われていたのです。地震が起こってみると、それまでは固着したままひずみがたまっていたにちがいないのです。

気象庁が当初出した津波警報が最大6メートルだったのは、速報を出すためのシステムに入れてあったパターンの限界によるもので、速報の機能に限っての、まさに技術的な意味での想定外でした。実際の津波の情報がはいりはじめて警報はいくらか修正されました。

地震をきっかけとして原子力発電所の事故が起こりうることは、石橋(1997)の評論が出て以後は多くの人にとって想定(「想像」というべきかもしれません)可能だったはずです。しかし「原発震災」を警告する人は地震学者の石橋さんのほかの多くは原発反対運動家として知られた人だったため、マスコミなどはその議論を軽視する傾向がありました。

いま原子力安全委員長になっている班目(まだらめ)さんは、2007年2月16日、浜岡原発に関する静岡地裁での証言で、非常用ディーゼル発電機が同時に故障することを考えるべきではないかという問いに対して、同時多発故障まで考えたら設計できない、と述べたそうです。(いまインターネットでこの発言をさがそうとしてキーワード検索をかけると、班目さんに対する感情的非難を含む震災以後の文章が多く見つかり、班目さん側の立場を述べたページが見つからないので、強い批判を含むが班目さんのことばをすなおに伝えてもいる原子力資料情報室の2007年7月31日の記事http://www.cnic.jp/modules/news/article.php?storyid=558 をあげておきます。)

ところで、科学論にトランスサイエンス(trans-science)ということばがあります。「科学で問うことはできるが科学だけでは答えることができない問題」をさします。増田(2007)の「科学の手にはおえない課題」という表現はこれをさしています(そこでは詳しく論じませんでしたが)。この概念を言い出したのはAlvin Weinberg (1972)であり、その例題が、まさにこの原発の同時多発故障なのでした。すべての安全装置が同時に故障すれば大事故になるということは科学で言えるが、(同時故障の確率は低いことはわかっているがその数値の桁さえ決まらないという状況で)それにそなえてもうひとつ安全装置を設置するべきかという問いには科学では答えられないのです。

(原文を確認できるのにまだしておらず、隈本さんの話(もとは小林傳司さんとのこと)によって述べますが) Weinbergは「科学者の責務はどこまでが科学で言えるかを明確にすることだ」と言ったそうです。ところが日本の政治は、大事な判断を科学者による審議会に依存する傾向があります。隈本さんは班目さんの態度は科学でできる確率計算はまじめにやるものとして評価しているようでした。(石橋さんに近い立場からは、同時多発故障の事例をいくつか具体的に計算してみることも科学の内でできたはずだと言えそうですが。) すべての可能性を想定して科学的事前アセスメントをせよというのは無理な注文になります。問題はむしろ、科学による答えが得られないとき政策決定に必要な判断をだれがどのようにするかが想定されていない構造にあるのです。

ここから隈本さんの話を離れてわたしの考えになります。(実はセミナーのとき質問として発言したのですが、時間が乏しかったので、わかりにくい表現になってしまい、すみませんでした。) 科学の知識が必要な政策決定の課題がある場合、科学者が科学者としてかかわるのは、Weinbergのいうように、科学で答えられる範囲まで答えたうえで、その先は答えられないことを明確にするところまでとするべきなのでしょう。しかし、もしその先は政治家の領域だとするのならば、政治家も科学者が出す科学情報を誤解なく利用できるだけの知識を持っている必要があるでしょう。それは望ましいことですが、あまりありそうなことではありません。科学の背景知識をもち、科学者の答えを聞いて、政策決定側の判断の案を作る職能を確立する必要があるのではないかと思います。この職能を仮にトランスサイエンティストと呼んでおきます。社会は科学者の一部をトランスサイエンティストに転職させるべきなのでしょう。審議会は、トランスサイエンティストが委員となって、科学者を参考人として呼ぶ形で進めるべきなのかもしれません。

[この段落は2011-05-01補足] Weinberg (1972)の原文をひととおり読みました。Weinbergは、科学技術のかかわる政策決定の過程の議論には、科学の領域と政治の領域の間にトランスサイエンスの領域というべきものがあると考えていました。トランスサイエンスの課題に対しては、(民主主義国では)すべての市民にかかわる権利があり、多様な人々が実際に意思決定の過程に参加することが有効だ、とWeinbergは考えていました。確かにWeinbergは科学者に科学とトランスサイエンスの境界を示すように求めているのですが、科学者の役割はそれで終わりというわけではなく、トランスサイエンスの議論にも一員として加わり科学的方法論に基づく発言をするべきだと言っています。トランスサイエンスの専門家は想定されていません。わたしも、トランスサイエンスはトランスサイエンスの専門家にまかせるべきものにはならないと思います。上にわたしが仮称「トランスサイエンティスト」の職能を確立するべきだと書いたのは、科学者や政治家や利害関係者などによる議論を進行させ社会的意思決定に役立つ形にまとめるための世話役として、それにふさわしい専門性を持った人を配置するべきだという意味です。

実際には、科学者による答えが人によって違う可能性があります。そこで、多くの科学者が賛同しうるような幅をもった表現をくふうする必要があるかもしれません。(IPCCはそのようなことを意識的にやったわけです。ただしIPCCの場合各国政府代表の了承も求めるので純粋に科学者の合意ではありませんが。) また、科学者による答えに見えても、科学的に正しくないものや科学的裏付けのないものは合意の幅からはずすべきですが、異端と思われた考えが正しい場合もあるので、だれがどのように取捨選択するべきかは簡単ではありません。[2011-05-01補足: WeinbergはVelikovskyの例をあげてこの論点にもふれています。] このようなことを考えると、科学者とトランスサイエンティストとの役割分担を上に述べたほど明確にすることはむずかしく、両方にまたがった役割をする人も必要かもしれません。その場合も、そのようにまたがった役割であることを自他ともに認めることで政策決定との関係の見通しがよくなると思います。 [2011-05-01改訂: トランスサイエンスの領域の議論の世話役の仕事としては、このような取捨選択や合意形成の支援もあるでしょう。]

今回の震災のからみで「想定外とは言わせない」という議論をよく見ます。実際少しがんばれば想定して備えることが可能だった場合は適切だと思いますが、それ以外の場合には不毛だと、わたしは思います。「想定」という用語は、科学によって答えが出せる問題について使うのが適切だと思います。トランスサイエンス的問題は用語を区別してたとえば「想像」としたほうがよいと思います。「想」しても「定」に至らないのです。科学は万能ではないのでどうしても「想定外」の事態は起きますが、それをなるべく「想像内」にしていくべきなのだろうと思います。

[この段落は2011-05-01補足] 地球温暖化に関しては、増田(2007)で二段がまえで備えるべきだと書きましたが、その第1は、理論と予測型シミュレーションの知見をもとに温暖化した世界を「想定」して備えることであり、第2は、確率の見当もつかない「驚き」となる変化もありうることを「想像」しておくことです。

文献

  • 石橋 克彦, 1997: 原発震災。科学, 67:720-724.
  • 小林 傳司, 2007: トランス・サイエンスの時代NTT出版
  • Alvin Weinberg, 1972: Science and trans-science. Minerva, 10:209-222. 再録 1992, Nuclear Reactions: Science and Trans-Science, American Institute of Physics, 3-19.